持氏と憲実との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:43 UTC 版)
永享7年(1435年)に持氏は軍事行動をはじめ、応永26年(1419年)に関東管領に就任した上杉憲実は持氏を制止するが、持氏と険悪な関係となり、永享9年(1437年)に持氏が憲実を暗殺するという噂が流れると、双方の軍が鎌倉に集結して不穏な状況になった。『鎌倉持氏記』・『喜連川判鑑』には持氏から憲実討伐を命じられた上杉憲直が6月15日になって相模藤沢へ逃れたと記されるが、『永享記』には藤沢に逃れたのは上杉憲実であったとする。また、この時に憲実が兵を率いて藤沢にいた形跡があり、憲実と持氏の衝突は避けられない情勢となった。7月になって両者は持氏の妥協により和解するが、永享10年(1438年)6月、持氏が嫡子の賢王丸(足利義久)の元服を幕府に無断で行うと再び対立し、憲実は同年8月に分国であった上野平井城に逃れる。持氏は憲実追討のため近臣の一色直兼に軍を与えて差し向け、自身も武蔵府中高安寺(東京都府中市)に陣を構える。憲実は幕府に救援を請う。 幕府では将軍義教が持氏の叔父に当たる陸奥の篠川公方足利満直や駿河守護今川範忠・信濃守護小笠原政康に憲実の救援を命じ、禅秀の子上杉持房・上杉教朝らをも含む幕軍を派遣する。更に越前・尾張・遠江守護斯波義健の後見人斯波持種・甲斐常治と朝倉教景も関東に派遣された。この時に義教は朝廷権威を利用し、後花園天皇に対して3代将軍足利義満時代以来であった治罰綸旨と錦御旗の要請を行う。
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