持氏の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:43 UTC 版)
9月27日、今川勢は持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え、上杉持房も箱根の陣を破る。ほぼ同じ頃、信濃から上野国板鼻に入っていた小笠原政康は平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。10月4日、憲実も平井城を出陣して、一色軍を破った。更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退き、寝返って鎌倉へ攻め込んだ。劣勢に陥り、早川尻において兵の多くが戦死、逃亡した憲直、持氏は相模海老名まで退き、鎌倉へ落ちようとした。持氏一行は途中で憲実の家宰である長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)及び同じく重臣の景仲の軍と出会い、持氏は幕府への恭順を誓い、ともに鎌倉の永安寺に入った。11月4日、持氏は称名寺に入り出家する。一色直兼以下の持氏の近臣達は、称名寺で幕府軍に攻められ自害した。持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉された。 憲実は持氏の助命と持氏の嫡子義久の鎌倉公方就任を嘆願するが、義教は許さず更に憲実の反逆を疑って重ねて討伐を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と叔父の稲村公方足利満貞らは自害し、義久は鎌倉報国寺において自害した。
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