やぐらの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
やぐらは南北朝時代を経て室町時代中期まで続くが、室町時代に入ると形状も簡略化され、その数も減少する。やぐらが作られなくなった時期は鎌倉が武士の都市ではなくなった時期におおよそ付合する。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する1438年(永享10年)の永享の乱で持氏が自害し、その嫡男足利義久も報国寺で自害し鎌倉府は滅亡する。これが関東における戦国時代の幕開けである。その後1447年(文安4年)3月に鎌倉府は持氏の遺児足利成氏のもとで一時再興されるが、1454年(享徳3年)12月に始まる享徳の乱で、本拠地鎌倉を室町幕府の命を受けた今川範忠に占拠され、下総国古河に移って古河公方と称された。ここに至って鎌倉は最終的に「武士の都」ではなくなり、多くの寺院も衰退して鎌倉はほぼ農村と化す。つまりやぐらで供養されていた武士を始めとする上流階級のほとんどが鎌倉を去って、供養する者が居なくなった多くのやぐらは忘れさられてゆく。その後は残されたやぐらを倉庫代わりに使ったり、埋もれかかったやぐらの内部に遺体を土葬したりするようにもなった。
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