付合
付合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 19:50 UTC 版)
連歌を理解する上でもっとも重要な概念は付合(つけあい)である。 連歌は原則として複数の作者による連作によって展開する。具体的には、作者Bがbの句を詠む際に、作品としての一体感を保つために、直前に詠まれた句(前句と呼ぶ。仮にaとする)の内容を参看し、その情景や情趣、句境を踏まえて句を作る。前句aはもとよりB以外の作者(Aとする)の作品ではあるが、Bはaの立場に立って、そのポエジーを推測し、受け継がなければならない。また、場合によっては、次句を詠む予定である作者Cに対して、次の句がつけやすいように前句の作者Aが配慮することを求められる場合もある。すなわちBはbという句の作者ではあるが、bという句に対して十全にみずからの個性を発揮するのではなく、前句aや次句の作者Cに配慮しつつ、前後の流れに合致するように作品を作らなければならない。 ただし、一体感とともに連歌で重視されるのは、展開であり、変化である。すなわち前句aに対してbの句があまりに調和しすぎている場合には、作品全体が平板で変化のないものに陥ってしまう危険性が生ずる。連歌は多人数が製作に参加することで、句に盛られるポエジーが次々に変化し、移調してゆくことを狙いとする文芸であるから、過度に前句と調和しすぎた句を詠むことは、その本質から言って好ましくないのである。そこで、作者Bは前句aに対して、適度に調和を保ちつつも、同時に新たな要素を詠み込んで展開をはかることが求められる。連歌作者における個性はこのような局面において発揮されるべきものなのである。作者Bがbの句において、前句aからの変化をはかる際には、「前句(a)の読み替え」という手法がとられる。連歌では一句がたいへんに短いために勢いその内容には省略や飛躍が多く、多義的な読解を可能にすることが多い。これを利用して、aの句がその前の句(bの前々句。打越と呼ぶ)と一体になって示される句意とはややずれた、しかしa一句の句意としては包摂しうる、新たな句意をaが持ちうるようにbの句を詠む。 句の展開の上でさらに注意しなくてはならないことは、たとえば作者Cがbの句の次に句を詠む場合、その句cが二句前に詠まれたaの句と内容的に重複しないようにするという点である。ある句に対して二句前にある句を打越と呼ぶが、打越aにすでに存在する情景や情趣、素材、表現をそのまま用いてcが詠まれた場合、cに対して次に詠まれるd句はb句と似た内容になりがちである。すなわち「a→b」という展開が「c→d」というかたちで反復される可能性が高くなるわけだが、これは連歌の展開、変化という原則に反し、作品を平板なものにしかねない。そこで、新たに句を詠む場合には、打越に存在する要素を避けることがもっとも基本的なルールとなる。さらにはこのルールが拡大され、特定の語の場合には、そのイメージがきわめて強いために、三句前のみならず、四句前、五句前……であっても回避しなくてはならないという「×句を隔つべき物」という式目が形成されてゆく。 以上が「付ける」あるいは「付合」の概念であり、その技法は連歌の史的展開とともにさまざまに変化・発達していったが、狭義の連歌においてはもっぱら語の寄合による付合が行われた。寄合とは、ある語に対して縁のある語(付合となりうる語)であるとひろく認められたものを指し、連歌の盛行したころにはしばしば寄合をまとめた寄合書がつくられた。
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付合
「付合」の例文・使い方・用例・文例
- あの人は付合って面白い
- 付合ってあんな面白い人は無い
- 付合って面白くない男だ
- 彼は付合ってみるとだんだん面白くなる
- 二人は親類付合いをしている
- ここに居れば親類付合いをしてやる
- あの人は(付合ってみたところでは)別して変ったところは無いようだ
- (彼と深くは付合ってみないが)付合ってみただけでは別に変ったところは無いようだ
- そうすりゃ兄弟同様に付合ってやる
- 彼と深くは付合ってみないが別に変ったところも無いようだ
- そのお付合いはまっぴらご免だ
- 英語を知らないと人並の付合ができない
- 付合ってみると面白い人だ
- 彼は僕などのような者と付合わない
- あんな人と付合うと難儀させられるぞ
- あれは付合いにくい男だ
- 僕と付合うのが恥かしいなら押しかけはせぬ
- 僕は田中等とは付合わない
- さびしかったら誰かに付合って貰います
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