室町時代中期まで
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中原氏は後醍醐天皇の建武政権下では大きく抜擢された。『建武記』によれば、建武2年(1335年)3月17日時点での、最高政務機関記録所の寄人(職員)全21名のうち、中原氏からは明法道系統も含め、中原師治、中原秀清、中原職政、中原師利、中原章香、中原師右、中原明清の7人が選ばれ、全体の3割を占めていた。 南北朝時代の中原師茂(正和元年(1312年) - 天授4年/永和4年(1378年))は、北朝側に付き、傍系ながら大外記明経博士に任じられ、故実に通じた学者として、先例をしばしば朝廷に勘進した。 師茂の弟の中原師守は日記『師守記』を残したが、公事のみならず当時の社会全般に関しての記録が豊富なため、南北朝時代における第一級の史料である。同書は2004年に重要文化財指定。師守の子孫は押小路家を名乗り、数代が大外記に任じられたものの、しばらくして絶えた。師守流押小路家は、嫡流とは同名別家で、時代的にはこちらが先行する。 室町時代中期の中原康富(? - 長禄元年(1457年))は学問・和歌に優れ、明経道系統の中では庶流ながら正五位下権大外記に昇り、伏見宮や花山院家の講師となり、また鷹司家家礼も務めた。15世紀前半の重要史料である日記『康富記』を残した。
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