室町時代の荘園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 10:21 UTC 版)
1333年の鎌倉幕府滅亡から建武の新政、室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も非常に流動化した。このため、鎌倉期以前の荘園では、住居がまばらに点在する散村が通常であったが、室町期に入ると、民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まり、武装する例もあった。 新たに発足した室町幕府は、戦乱を抑えることを目的として、在地武士を組織するため、国単位におかれる守護の権限を強化した。1346年、幕府は守護に対して、刈田狼藉の取締と使節遵行の権限を付与した。さらに、1352年、守護が軍費調達の名目で荘園・公領からの年貢の半分を徴発する半済を、近江・美濃・尾張3国に限定して認めた。半済はあくまで限定的かつ臨時に認められていたが、次第に適用地域が拡がっていき、かつ定常的に行われるようになった。 こうして守護には強大な権限が集中することとなった。守護が荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請も活発に行われ始め、守護による荘園支配が強まった。守護は一国全体の領域的な支配を確立したのである。室町時代の守護を守護大名という。 一方、荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していった。このような村落を惣村という。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かった。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともある。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもあった。 守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなった。ただし、この通説に対しては批判もあり、室町幕府が公武権力の頂点となり、守護に荘園・公領への賦課を認める一方で、荘園・公領に対する一円支配を安堵する政策を取り、百姓からの荘家の一揆や土一揆に対しては守護と荘園が協力して鎮圧するなど、15世紀後期までは比較的安定していた時期が続いており、荘園制の解体段階ではなく「室町期荘園制」とでも呼ぶべき安定段階にあったとする説もある。
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