室町時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:18 UTC 版)
吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある。 文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため、元春が築城したと解説される場合もあるが、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない。 当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある。
※この「室町時代まで」の解説は、「吉田郡山城」の解説の一部です。
「室町時代まで」を含む「吉田郡山城」の記事については、「吉田郡山城」の概要を参照ください。
室町時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:04 UTC 版)
室町時代後期には、大友氏家臣の吉岡長増によって鶴崎城が築かれた。この城は、天正14年(1586年)の島津氏の豊後侵攻の際に、長増の子・鑑興の妻であった妙林尼が智謀を用いて籠城を続けたことで知られる。
※この「室町時代まで」の解説は、「鶴崎」の解説の一部です。
「室町時代まで」を含む「鶴崎」の記事については、「鶴崎」の概要を参照ください。
室町時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:09 UTC 版)
鎌倉時代初期、日本に喫茶の習慣を広めた明菴栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶壷」に入れて明恵に送った。明恵はその茶種を京都の北、栂尾の高山寺に近い深瀬(ふかいぜ)の地に植え、その後、宇治の地にも播植した。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に平等院に小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、この地で本格的な茶の栽培が始まった。南北朝時代には栂尾で生産された茶が「本茶」とされ、それに続くとされていた醍醐や宇治の茶は「非茶」と呼ばれた。南北朝時代から室町時代にかけて、茶の産地の違いを飲み当てて点数を競う「闘茶」という遊びが流行した。初めは本茶と非茶を比べ当てる遊びだった。やがて数種類から十数種類の茶を比べ当てる遊びに発展し、他産地とは異なる香り・味を持った茶を生産しようという傾向が生まれ、様々な産地の茶が生まれる要因となった。1374年(応安8年)、豊原信秋が覚王院僧正に「宇治茶」を献上したことが『信秋記』に記されるが、これが「宇治茶」という語の初出である。 南北朝前期から中期にかけては栂尾茶に次ぐ存在にすぎなかった宇治茶であるが、足利義満の庇護の下に発展の時代を迎え、南北朝末期から15世紀半ばにかけての発展ぶりは目覚ましく、一条兼良が記した『尺素往来』には「宇治は当代近来の御賞翫」と表現されている。1564年(永禄7年)、宇治七名園が成立し、『分類草人木』にその存在が記された。
※この「室町時代まで」の解説は、「宇治茶」の解説の一部です。
「室町時代まで」を含む「宇治茶」の記事については、「宇治茶」の概要を参照ください。
- 室町時代までのページへのリンク