築城時期
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築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では弘治2年(1556年)、木戸忠朝によるものと記している。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で 武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝 と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である。 『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するための拠点とする狙いがあったとしている。
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築城時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:40 UTC 版)
甲斐国巨摩郡大豆生田を支配していた藤巻氏によって築かれたとされ、藤巻氏屋敷という別名もある。初めは城ではなく、あくまで領主である藤巻氏の屋敷として築かれたとされるため、屋敷としては戦国時代以前から存在したと考えられている。 天正10年(1582年)2月の甲州征伐の際に甲斐武田氏が本拠を置いた新府城の北面防衛に重要な地点に位置すること、同年の時点で明確に島崎城の存在が確認できること、島崎城のある場所が大豆生田(まみょうだ)と呼ばれるようになったのは釜無川の氾濫による河川の流れの乱れた後であることから、甲斐武田氏滅亡前に新府城の防衛拠点として整備され、この頃から城として機能するようになったと考えられる。
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