豊後侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:33 UTC 版)
義弘の3万は肥後路から豊後に攻め入った。この島津氏の侵略で大友氏重臣の入田義実と志賀親度が寝返り、義弘の先導役を務めた。 10月22日に志賀親次の家臣である佐田常任が守る高城を水の手を断ち切ることで陥落させたのを手始めに、鳥岳城(堀相模守は戦死)・津賀牟礼城(戸次統貞は降伏)・高尾城(堀中務は降伏)など大野郡における諸城を攻略した。他にも片ヶ瀬城・田中城・小牧城などが陥落するが、親度の嫡男である太郎親次の守る岡城は陥落しなかった。岡城が大野川と稲葉川と玉来川という天然の堀に守られた標高80メートルの山城であるという利点と親次の奮戦に、島津軍も手を焼いたのである。
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