土持高綱の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 22:35 UTC 版)
土持高綱は、島津氏の豊後侵攻の際、豊後国人衆の調略に奔走した。のちに「久」の字を賜って久綱と改名したことは知られている。これは大友家臣団の懐柔が可能なほど顔を知られていた人物であったと思われ、時代を考えたとき、幼くして薩摩に落とされたという記述がある親成の子・親信がはたしてやその様な働きが出来たのかという疑念が残る。となれば松尾城攻防の折り、数えで22歳だった高信が落ち延びて、高綱となった可能性は否定できない。勿論、一切の資料がないので確証はとれない。 天正14年の豊後侵攻戦に於いては、当然と言うべきか日向口の島津家久を総大将とした総勢一万人余という部隊の侍大将の一員として山田有信・吉利忠澄・伊集院久治・伊集院久宣・本田親貞・上井覚兼・樺山忠助・樺山規久・平田宗応・新納久時・平田宗強と並んで記録されている。 翌天正15年3月。豊臣家の九州征伐に伴い、島津軍が撤退すると、旧領たる松尾城にて籠城戦を展開。またも敗北を喫している。 高信=高綱が事実である場合、そこには、自身の死を偽装し、調略に功績を立て、伏見で死去した事柄から優れた外交交渉能力と教養を見て取れる反面、戦の采配はいまいちという姿が浮かび上がってくる。武の士の本来からすれば外れた者であり、一族が没落するのもやむなしと言ったところであろうか。
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