伊集院久宣とは? わかりやすく解説

伊集院久宣(いじゅういん ひさのぶ) ????~1587

美作
◇父:伊集院忠胤 子:伊集院忠許
 薩摩島津氏家臣各地転戦し武功重ねるが、豊臣秀吉九州侵攻前に退却中、豊後大友軍の攻撃を受け戦死

伊集院久宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 05:52 UTC 版)

 
伊集院 久宣
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1531年
死没 天正15年(1587年)3月15日
別名 重助、甚助
官位 美作
主君 島津貴久義久
氏族 惟宗姓島津氏伊集院氏
父母 父:伊集院忠胤
兄弟 忠次、忠公、久宣
忠許、女(友野左近室)、女(岡元主計室)、女(石塚政勝室)女、(三宅七兵衛室)
テンプレートを表示

伊集院 久宣(いじゅういん ひさのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津家の重臣伊集院忠朗の従兄弟で島津氏の家臣。

略歴

天文17年(1548年)、本田董親の施策に反抗した本田実親が立て籠もる大隅国姫木城の戦いに出陣。弘治2年(1556年)には蒲生氏の本拠である蒲生城攻めで活躍する。永禄10年(1567年)、馬越城の戦いに参加した。 島津氏の勢力拡大と比例して各地に出陣するようになり、天正4年(1576年)の高原城攻めを皮切りに天正6年(1578年)の耳川の戦い、翌々年の天正8年(1580年)には肥後国日平城(日比良城、花牟礼城)攻め、翌年の相良氏重臣犬童頼安が籠もる水俣城攻めでも活躍した。

天正10年(1582年)、肥後国隈本城新納忠元とともに在番。翌年は相良氏の同盟者で、相良氏降伏後も抵抗を続ける阿蘇氏を攻撃する。

その後、大友氏の勢力圏である筑後国筑前国にも侵入。天正14年(1586年)、高橋紹運の籠もる筑前岩屋城攻防戦(岩屋城の戦い)では奮闘するも大きな被害を受けた。態勢を立て直した後、島津家久に従ってへ日向国側から豊後国へ侵入(豊薩合戦)、豊後国内を転戦する。豊後国鶴崎城攻めに野村文綱・白浜重政らと参加したが、天正15年(1587年)3月15日、退却中に鶴崎城代の吉岡妙林の奇襲を受けて討死した。

系譜

  • 父:伊集院忠胤
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:伊集院忠許



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伊集院久宣」の関連用語

伊集院久宣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伊集院久宣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伊集院久宣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS