鶴崎城攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 05:31 UTC 版)
天正14年(1586年)、九州制覇を目指す島津氏は大友氏が統治する豊後侵攻を開始し、大友氏の援軍として豊臣秀吉が寄越した連合軍にも戸次川の戦いで勝利し、破竹の勢いで豊後各地を制圧していった。勢いに乗る島津家久は大友宗麟のいる臼杵城(丹生島城)へ向けて進軍すると共に、野村文綱・白浜重政・伊集院久宣らに総勢3千の兵を持たせ、鶴崎城を攻略するよう命令した。 当時、鶴崎城の城主は吉岡鎮興の子・統増(甚橘)であったが、その統増は宗麟に従って臼杵城に籠城していたため、鶴崎城の指揮は母親であった妙林尼に委ねられていた。若い兵は統増が連れて行ってしまったため、城内及び周辺には老人の家臣や農民、女や子供しかおらず、戦力的にも降伏するのが妥当な選択肢であったが、城を明け渡す事を良しとしなかった妙林尼は籠城を決意し、急いで農民に家から板や畳を持ち寄らせると、それを材料に城の周りに砦を築き、また農民に鉄砲の使い方を教えるなどして決戦に備えた。 同年冬、野村文綱を中心とした島津軍は白滝山に陣を敷きいよいよ攻撃を開始するも、妙林尼が周到に準備した落とし穴や鳴子の罠と鉄砲を巧みに使用した奇策に次々と嵌り、大苦戦。結局、妙林尼率いる吉岡軍は計16度に及ぶ島津軍の攻撃を退け、なおも籠城を続けた。なかなか城を落とせない島津軍は、要請されている本軍への合流が出来ず、ついに和睦を提案。食糧が底を突きかけていた妙林尼側も、全員の命の保証を条件に鶴崎城を開城し、撤退した。この時、和睦した妙林尼側は島津軍を手厚くもてなし、城内で両軍酒を酌み交わすなどしたと言われている。
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