寺司浜の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 05:31 UTC 版)
和睦した妙林尼ではあるが、島津軍の殲滅を諦めた訳ではなかった。天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉が自ら20万の大軍を率いて島津討伐へ向かうとの知らせが入ったため、豊後にいる島津軍に撤退命令が出ると、妙林尼は野村文綱の屋敷を訪れて「私は島津軍と厚く交流してしまったため、大友家には残れないから家臣共々一緒に薩摩に連れて行って欲しい」と頼み込み、また祝賀と称して島津軍にお酒を飲ませた。8日(4月15日)、出立する島津軍を「後からすぐに合流する」と見送った妙林尼は、この時を待っていたとばかりにすぐさま家臣に命じ、後から追いかけてくるはずの妙林尼一行を待ちながら千鳥足でゆっくり撤退する島津軍に乙津川辺りで奇襲攻撃を仕掛け、白浜重政、伊集院久宣ら大勢を討ち取った。野村文綱は流れ矢を胸に受け負傷しながら何とか日向国・高城まで逃げ延びるも、この時受けた傷が元で没した。
※この「寺司浜の戦い」の解説は、「妙林尼」の解説の一部です。
「寺司浜の戦い」を含む「妙林尼」の記事については、「妙林尼」の概要を参照ください。
- 寺司浜の戦いのページへのリンク