土持高信の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 22:35 UTC 版)
土持高信は親成の養子で、「相模守」の官途から、土持親佐の従兄弟(末弟ヵ)にあたる土持相模守栄続の子である。妻は伊東義祐の娘。義父である親成が伊東氏の門川城攻略に乗り出した際、三田井親武の取りなしにより両家が和睦する事になり、娶ることになった。 彼について初めて資料に見られるのは(鹿児島県資料・「日州御発足日々記」)に記された物で、おそらく高信であろう「相模」なる人物が天正6年(1578年)正月二日に鎧甲と刀を持って島津家に使者に訪れている。同年に大友氏が襲来した際、北西の行縢山を搦め手に大友軍を迎え撃った養父・親成に代わって本拠の松尾城を守った。そして衆寡敵せず松尾城が陥落すると、高信は城を抜け出し、山を越えて大友義統の本陣を突こうとしたが家臣・水洲伊賀守の説得で諦め、自刃したという。自刃したとされる場所は現在土持神社が建っている。 なおこの時、高信は鎮綱(しずつな)と言う名であったという資料もある。「鎮」の字はこの時分の大友氏の家臣に対する偏諱でよく使われている事から、大友氏の高信に対する期待が見て取れ、それ故に裏切りはますます許せないことであったに違いない。 ただし、高信についての記述は、「日向記」諸本では行縢山で大友軍を迎え撃ったのが高信、松尾城を脱出して自刃したのが親成としてあり、逆に「延陵世鑑」では行縢山が親成、松尾城が高信と、史料によって正反対である。飫肥藩の平部僑南は「日向纂記」の中でこの両説を比較した末に後者を取っているため、この項でも後者を参考にしたが、執筆年代の早い「日向記」の方が史料としての信憑性は高い。ただし土持親成は捕縛されて後に自害しているため、「日向記」の記述は一部において明らかに事実と異なっている事になるので、非常に難解である。 まことに不思議な関係であるが、この高信は親成の実子の親信を養子にしていた様だ。ここに推測を述べることはあまり良しとしたことではないが、あまりに分家化が進んだ結果、敵対中の伊東氏の麾下に入る一族がでるなど、求心力の落ちた本家が、一族中俊英と知られた親成を当主に迎えたが、血統を重視する者もいる中、苦肉の策として交互の養子関係という事をしたのではなかろうか。 戦後の昭和25年(1950年)、高信自刃の地である延岡市妙町にて、道路建設の最中に何者かの首(頭蓋骨)が発見され、研究家の言により土持高信の遺骨とされたが、その後に調査の進展があった様子はない。
※この「土持高信の事跡」の解説は、「土持久綱」の解説の一部です。
「土持高信の事跡」を含む「土持久綱」の記事については、「土持久綱」の概要を参照ください。
- 土持高信の事跡のページへのリンク