執筆年代とは? わかりやすく解説

執筆年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 21:49 UTC 版)

テサロニケの信徒への手紙二」の記事における「執筆年代」の解説

この書簡新約正典の他の文書同じく内容から執筆年代を推測するほかはないが、以上に見てたように、この書簡真正書簡であるか擬似書簡であるかが定まっているとは言い難いため、どちらの立場をとるかによって推定される年代大きく異なってくる。 伝統的アプローチを採る学者は、本書簡は第一テサロニケ書から時をおかずに(おそらくコリントで)書かれたと考えている。というのも第一の手紙書いたキリストの再臨について誤解している人々がいることを知ったパウロがその誤り正すために書いた推測できるからである。パウロ自分述べたキリストの再臨がいまにも訪れというわけではなく、それに先だって「滅びの子」が現れる述べている。こうした矯正」を目的とする執筆だったという見解は『ムラトリ正典目録』(2世紀末ないし3世紀初頭)でつとに示されていた。 パウロ第2回伝道旅行テサロニケ着いたのは西暦49年もしくは50年とされ、そのあとベレヤアテネコリント移ったパウロが、派遣していた弟子テモテからテサロニケ様子聞いて執筆したとされるのが第一テサロニケ書で、50年ないし51年ごろとされる第二テサロニケ書はそれから間もなく数ヶ月以内時期書かれたと推測されている。使徒言行録18章から第20章叙述従えばパウロコリント1年6か月滞在した後にテサロニケのあるマケドニア属州赴いているので、直接口頭指導せずに手紙書いたのは、マケドニア赴く前だったからと見なされるのである。 なお、真正書簡と見る立場には、第一テサロニケ書よりも第二テサロニケ書の方が先に書かれたという説も、1640年グロティウス以来一定程度見られる。それらの立場では、パウロベレヤアテネ滞在していた時に執筆されたと見なされている。また、代筆」説の場合実際執筆者としては(この手冒頭にも名の挙がっている)テモテシルワノの名を挙げる論者もいるが、そこまで特定できるかどうかには疑問投げかけられている。 擬似書簡と見る側の年代推定には幅があり、その論拠も様々である。まず、第2章1節から12節の中で「不法の者」が「神の宮」(神殿)に座する事態未来出来事とされていることを踏まえエルサレム神殿崩壊西暦70年)よりも前の成立想定する者がいる。他方で、その表現あくまでもダニエル書などにも見られ伝統的な黙示文学モチーフ倣ったもので、現実世界動き直結させるべきではないとする見解もあり、年代決定参考情報にしている者にも同様の慎重さを示す者はいる。 ほかの手がかりとして、作成の動機挙げる者もいる。前述のように擬似書簡説に基づけば、作成の動機パウロ第一テサロニケ書で強調していたすぐにも(パウロ生きているうちにも)来るという終末先送りにすることにあったとされるので、パウロ没後間もない頃に浮き足立っていた信者たちを鎮めるために、その時期に執筆されたと考えられるのである。これらの立場では、擬似書簡の中で最も初期部類属す可能性取り沙汰されている。 もう一つ論点が、「終末遅延に関する意識である。第二テサロニケ書が「終末遅延」の認識、すなわち本来ならば来ているはずの終末がまだ来ていないという認識のもとで書かれたかどうかについても議論があり、これに否定的な場合擬似書簡立場を取る論者にも意図的に終末遅延」という表現避ける者がいる。他方で、第二テサロニケ書に「終末遅延」を見出す論者は、1世紀末ごろの作成をしばしば想定しているが、福音書見られる意識との比較などから、西暦80年代成立想定する者もいる。 下限となる指標については、90年頃に編纂されたパウロ書簡集 (Corpus paulinum) に含まれていたことを挙げる者や、マルキオン聖書140年頃)に含まれていたことを挙げる者などがいる。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 05:47 UTC 版)

夏の夜の夢」の記事における「執筆年代」の解説

1598年にフランシス・ミアズが刊行した知恵宝庫』に本作への言及があるため、それより前に初演されていたことは間違いがない。ドロシア・ケーラーによると、本作書かれ時期1594年から1596年の間頃だと考えられ、これはシェイクスピアがおそらく既に『ロミオとジュリエット』を完成させ、『ヴェニスの商人』を構想中だった頃である。著者にとってはキャリア中期さしかかった頃であり、叙情重きを置いていた時期である。

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ヘルゲストの赤本」の記事における「執筆年代」の解説

ヘルゲストの赤本』に含まれるのは散文と詩両方で、1382年から1410年頃に書かれた。1701年、トマス・ウィルキンス師によりジーザス・カレッジ寄付され、現在はボドリアン図書館代理保管している( MS 111)。

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ヨエル書」の記事における「執筆年代」の解説

新聖書辞典』(いのちのことば社によれば複数の説があり、定説ないようである。 捕囚以前説(フリーマンヤングアーチャー等が説いている): BC830年ごろヨアシュ王の時代)にユダ王国執筆された。(理由以下のとおり)(1) アモス書ヨエル文体影響見られるので、アモス書より前に書かれた。 (2) 文体捕囚後の預言書文体異なる。 (3)ではなく祭司長老出てくるのは、ヨアシュ王が幼少であったため、摂政を必要としていたからではないか捕囚以後説(ファイファー、トライヴァー等が説いている): BC350年ごろ~BC200年ごろ。(理由以下のとおり(1) アラム・アッシリア・バビロンなどが出てこない。 (2) 黙示文学的な色彩が濃い。 (3) 4章6節に「ギリシャ人」が出てくる。また4章1~3節にエルサレム陥落と見られる記述がある。 マイヤースなどは、ヨエル書の執筆年代を、エルサレム帰還後で、エルサレム神殿再建完了(BC516年)の前に置いている。 エドモン・ジャコブなどは、アモス書 5章1820節にも、主の日(神による審きの日)の到来という、ヨエル書と同じテーマ扱っていることなどから、執筆年代をアモスホセア同年代(BC8世紀前半ヤラベアム統治のころ)と考えている。

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ブリタニア列王の事績」の記事における「執筆年代」の解説

この叙事詩には献呈先の人物記されているため、ここから執筆年代をある程度絞り込むことが可能となる。第一巻冒頭部には「ヴァンヌ司教がこの企て援助お与えくださいますように」、第十巻末尾には「そして、司教カディオクスが君らの口伝えにより、永遠(とわ)の名声博し生き永らえますように!」とあり、また折句の手法で全十巻の各巻最初アルファベットC・H・A・DI・O・C・C・U・S(カディオクス)の名が隠されてもいる。この「ヴァンヌ司教カディオクス」は1236年列聖され、1254年この世去っている事から、執筆時期この期間にあると推定できる

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オルス・アポロ (ノストラダムスの手稿)」の記事における「執筆年代」の解説

この手稿に関する同時代記録現存しないため、執筆年代は手稿そのものから判断する他はない。手稿からは次の事実析出されている。 使われている用紙は、コンタ・ヴネッサンかプロヴァンス1535年-1539年作成されいたものである(この点はピエール・ロレが最初に提示し、後にピエール・ブランダムール追認した)。故に執筆はこれ以降のことである。 序文献辞ナバラの「王女」「マダムジャンヌ・ダルブレ捧げられている。ジャンヌ14歳結婚したのは1541年のことであり、彼女は1555年には女王になっているため、「王女」「マダム既婚女性敬称)」を満たす時期1541年-1555年となる。手稿この期間に執筆されていなければならない手稿では、署名の後に添えた町の名前プロヴァンスサン・レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンスとなっている。彼は1547年にサロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に移住してからは、署名には一貫してサロンの名前しか挙げなくなるので、手稿1547年以前作成となる。 上記全て考慮に入れると、執筆年代は1541年-1547年となる。更に年代限定する上で重要な論点となっているのが、『ヒエログリュピカ』の最初フランス語訳版(1543年)より前か後か、という点である。 オーロットは、手稿訳語中に1543年版と共通する表現少なくないことを基に、ノストラダムス1543年版を踏まえて訳しているとした。また、ブリュノンも、本来の『ヒエログリュピカ』に含まれていない1543年版で付け加えられ題材手稿にも含まれていることや、手稿では1543年版の挿し絵を基に情景描写加筆している箇所があることなどを基に、やはり1543年版を踏まえているとした。これらの立場では、執筆1545年頃のこととされる。 他方でギナールは、手稿序文通りジャンヌ・ダルブレ献上されていたのなら、ナバラ文学サロン内で回覧されていたはずだとし、むしろ逆に1543年版の訳者ノストラダムスの手稿を参照して訳を作成したではないか、としている。彼の仮説では手稿執筆1541年とされている。執筆時期底本問題とも密接に関連する重要な論点であり、今後も更に専門家による議論深化望まれるところである。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 00:55 UTC 版)

じゃじゃ馬ならし」の記事における「執筆年代」の解説

この戯曲の執筆年代を特定するための努力はなされているが、ほとんど同じプロット台詞キャラクターの名前異なる A Pleasant Conceited Historie, called the taming of a Shrew (以下『ジャジャ馬ならし』と表記)という芝居があるため、確定困難になっている。『じゃじゃ馬ならし』と『ジャジャ馬ならし』の正確な関係はわかっていない。さまざまな説があり、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならしの上演を記憶再現したテクストであるという仮説、『じゃじゃ馬ならし』が『ジャジャ馬ならし』の原典ではないかという仮説、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならし』の初期原稿おそらくは記憶再現されたもの)ではないかという仮説、『ジャジャ馬ならし』が『じゃじゃ馬ならし』の翻案ではないかという仮説などがある。『ジャジャ馬ならし』は1594年5月2日書籍出版業組合記録登録されている。これは2つ戯曲の関係がどのようなものであれ、『じゃじゃ馬ならし』はおそらく1590年シェイクスピアロンドン着いた頃)から1594年(『ジャジャ馬ならし』の登録の時期)までに書かれたことを示唆している。 しかしもっと年代を絞ることも可能である。ト書きに「サイモン」 ("Simon") への言及があり、おそらく1592年8月21日埋葬され役者サイモン・ジェウェルを指していると考えられるため、『ジャジャ馬ならし』が書かれ可能性がある最も遅い時期1592年8月であると考えられる。さらにアンソニー・シュートの Beauty Dishonoured, written under the title of Shore's wife1593年6月発行)に『じゃじゃ馬ならし』のケイト言及した思われる箇所があるため、『じゃじゃ馬ならし』は1593年より前に書かれたと考えられるじゃじゃ馬戯曲2本ともに、著者不明芝居悪党見分けるコツ』(A Knack to Know a Knave、1592年ローズ座初演)に似た言葉遣い見受けられ、また『じゃじゃ馬ならし』にしかないいくつかのパッセージ借用している。このため、『じゃじゃ馬ならし』は1592年6月より前に初演されたと考えられる1982年オックスフォード版シェイクスピア全集おさめられた『じゃじゃ馬ならし』について、H・Jオリヴァーはこの芝居1592年までに書かれたと示唆している。これは『ジャジャ馬ならし』のタイトルページで、劇がペンブルック伯一座により「何度も演じられと書かれていることを基にしている。ロンドン劇場1592年6月23日ペスト流行閉鎖されており、ペンブルック伯一座バースとラドローに地方巡業行っていた。従業金銭的な損失もたらし劇団9月28日ロンドン戻ってきたが結局破産した。それから3年の間に、ペンブルック伯一座の名前をタイトルページにつけた戯曲が4本刊行された。クリストファー・マーロウの『エドワード二世』(1593年7月クォート版で刊行)、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』(1594年クォート版で刊行)、『ヨーク公リチャード真の悲劇』(1595年オクターヴォ版で刊行)、『ジャジャ馬ならし』(1594年5月クォート版で刊行)である。オリヴァーはこうした刊行物が、ツアー失敗の後に破産したペンブルック伯一座メンバーにより売却されたと考えるのが「自然な推定」だと述べている。オリヴァーは『ジャジャ馬ならし』は『じゃじゃ馬ならし』の記憶により再現だと考えている。 アン・トンプソンは1984年および2003年の『じゃじゃ馬ならしニュー・ケンブリッジ版シェイクスピアで、『ジャジャ馬ならし』は記憶頼った再現だという考え述べている。1592年6月23日劇場閉鎖注目し、「サイモン」についてのト書き、アンソニー・シュートによる言及、『悪党見分けるコツ』との類似などを理由に、『じゃじゃ馬ならし』は1592年6月より前に描かれ、このせいで『ジャジャ馬ならし』ができたのだと主張している。スティーヴン・ロイ・ミラーは1998年ニュー・ケンブリッジ版シェイクスピアおさめられた『ジャジャ馬ならし』で、1591年末から1592年初頭という執筆年代推定賛同し、『じゃじゃ馬ならし』が『ジャジャ馬ならし』に先んずる考えているが、翻案書き直しだという説をとり、記憶頼った再現だという説は否定している。 しかしキア・イーラムは、シェイクスピアがおそらくアブラハム・オルテリウスの『世界舞台第4版おさめられイタリアの地図と、ジョン・フローリオの『第二果実』を種本用いた考え、この2冊が出版され1591年を『じゃじゃ馬ならし』が書かれ可能性がある最も早い時期だと主張している。第一にシェイクスピアパドヴァヴェネトではなくロンバルディアだとする間違いおかしており、これはおそらくイタリア北部全体に「ロンバルディアと書かれているオルテリウス地図使ったためのものである第二に、イーラムシェイクスピア台詞一部をフローリオによるイタリア言語と文化バイリンガル入門書第二果実』からとってきたと示唆している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:20 UTC 版)

怒りについて」の記事における「執筆年代」の解説

この作品著された具体的な時期については、41年1月24日暗殺され皇帝カリグラ彼の発作的な怒りについて触れていることから、その時以前には遡らないであろうことのほかは明らかではない(考古時間論英語版))。また、セネカ本文中で、自身長兄ガッリオーを、52年ないし53年改めたこの名前ではなく生まれたときの名前ノウァ―トゥスを用いて呼びかけている(対話篇)。このことから、『怒りについて』はおそらく40年代中頃より後に書かれたものであろう第3巻は、内容文体の違いから、第1巻と第2巻よりも後の時期書かれたする見解がある。第3巻は、怒りという感情もたらす恐怖について説く独自の導入から始まり、(内容つながり連続性のある第1、2巻と異なり単独で読むことが可能な構成になっている。したがって第3巻は他の二巻附録として著されたか、あるいはそれ自体独立した論考としてできたものと考えられる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 06:21 UTC 版)

ヨハネ書簡」の記事における「執筆年代」の解説

福音派の『新聖書辞典』では、80年代末から90年代初頭エフェソエフェソスエペソ)で作成されたという見解が有力説として挙げられている。 異な立場をとる場合でも、3書簡がかなり近接した期間に作成されたという点に異論はない。その時期の下限となるのは、ポリュカルポスによる第一書の引用である。ポリュカルポスの手紙は状況証拠から推して117年ごろまでに書かれたと考えられているので、3書簡登場それよりも前のことになる。上限については、ヨハネ福音書第一書の関係が問題になる。第一書は思想的ヨハネ福音書と深い関連があるが、どちらが先なのかに議論がある。フランシスコ会訳聖書では、第一書よりも福音書の方が神学的に深められているという理由で、第一書の方が先に成立したとされている。この観点に立つと、ヨハネ書簡成立福音書成立した考えられる90年頃よりも少し前となる。 他方第一書に福音書叙述元にした部分少なくないことや、書簡にはヨハネ福音書見られるユダヤ教との対立見られず、共同体内の分裂主題になっていることなどを基に、書簡成立福音書よりも後と見なす者たちもいる。その場合、3書簡福音書よりも後となり、90年頃から117年頃までの間に絞れることになる。こうした立場に立つ大貫隆小林稔らは110年頃と想定しており、小林が項目担当者となった上智学院の『新カトリック大事典』でもその見解が採られている。レイモンド・エドワード・ブラウンは『ヨハネによる福音書』が原著者最終編集者によって書かれたという立場を採っており、その原著者の版(90年頃)の10年ほど後、しかし、最終編集者の版(おそらく100年過ぎた頃)が出る前に3書簡書かれたと想定した文庫クセジュ新約聖書概説担当したレジス・ビュルネ(フランス語版)は90年から110年の間と推定しており、土戸清もほぼ同様の時期推測している。 チャールズ・ドッド書簡迫害への言及見られないことから、96年から110年の間と推定したそうした言及欠如は、『ヨハネの黙示録執筆の背景をなしているドミティアヌス帝迫害後であることをうかがわせるのである他方で、ドッドは、もしも書簡イエス直弟子であったヨハネによって書かれたのなら、ドミティアヌス帝以前可能性想定できるとした。大幅に遡らせている例としては聖公会聖職者ジョン・ロビンソン英語版)を挙げることが出来る。彼は60年から65年ごろに見積もっている。ハワード・マーシャルはかなり幅が広く60年代から90年代の間と推測した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 15:20 UTC 版)

ヨハネの手紙三」の記事における「執筆年代」の解説

詳細は「ヨハネ書簡#執筆年代」を参照 3通のヨハネ書簡はいずれもほとんど同じ時期書き上げられたとみなされている。その時期は若干異説もあるものの、おおむね1世紀末から2世紀初頭見積もられている。たとえば、福音派の『新聖書辞典』では80年代末から90年代初頭作成されたという見解が有力説として挙げられている。福音派の『新聖書注解』でも90年頃とされており、同じく福音派尾山令仁90年から91年頃としている。ローマ・カトリックの側ではフランシスコ会訳聖書ヨハネ福音書よりも少し先に成立した考え90年よりも少し前の時期想定している。 これに対して、同じカトリックでもフェデリコ・バルバロは、ヨハネ福音書ヨハネの黙示録バルバロ90年から96年想定)よりも後の成立であろうみなしていた。また、岩波委員会訳聖書ヨハネ書簡担当し、それらを使徒ヨハネの作とはみなしていない大貫隆場合ポリュカルポス言及なども勘案して110年前後としている。この見解小林稔踏襲している。 ブラウン現存するヨハネ福音書原著者の版に最終編集者が手を加えて成立させたという立場を採っており、その原著者の版(90年頃)の10年ほど後、しかし、最終編集者の版(おそらく100年過ぎた頃)が出る前に3書簡書かれたと想定した。『ハーパー聖書注解』でも「100年頃とするのが大方の見解」とされている。 フランスクセジュ叢書新約聖書担当したレジス・ビュルネ(フランス語版)は90年から110年の間とし、土戸清もほぼ同じ期間を想定している。

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