執筆家として
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1940年代後半から1950年代初頭にかけ、ヴィアンは10冊の小説を執筆した。 「ヴァーノン・サリヴァン」というアメリカ風のペンネームで発行されたハードボイルドスリラーの小説4作は、金を稼ぐために執筆された。中でもサリヴァン名義のデビュー作『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』が有名である。 友人の出版業者から、当時フランスで流行り始めていたアメリカのハードボイルド小説を翻訳するよう依頼されたヴィアンは、「翻訳するぐらいなら俺が自分で書く方が速い」と『墓に唾をかけろ』を短期間で「でっち上げ」、韜晦趣味の表れから黒人脱走兵を名乗って出版させた。差別者である白人への憎悪に燃える黒人青年の残虐な復讐を描いた物語は、大衆からは好評を得たが、俗悪な暴力小説として糾弾されて裁判沙汰に発展するなど、作品としての評価以外でセンセーショナルな名を売った。結局裁判に敗訴したヴィアンは、『墓に唾をかけろ』の発行部数(100,000部)に比例して、100,000フランの罰金を科せられてしまう。その後も、ヴィアンの過激な通俗作品は、たびたび出版禁止の措置が取られた。パリのホテルで売春婦の残虐な死体が発見され、死体の傍にこの本があったことも起因となっている。 一方、ヴィアン名義では、みずからが本命とする前衛的な作品(『心臓抜き(L'Arrache-cœur)』や『赤い草(L'Herbe rouge)』、『北京の秋(L'Automne à Pékin)』)を次々に発表していった。恋愛小説『日々の泡(L'Écume des jours)』も執筆している。1946年に発表された『日々の泡』ではプレイヤード文学賞を狙うも、最終選考で落選した。このことに象徴されるように、ヴィアン名義の作品は一般からも注目されず、評論家からも酷評を受けた。この間に標準化協会を退職し、文筆業で生活していくことになった。 ヴィアンは、フランスで初めてレイモンド・チャンドラーの翻訳を手がけた功績でも知られる。その当時のフランスでは珍しく、ヴィアンはアメリカの大衆文化に精通していた。
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