執筆後の著者と作品の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 09:20 UTC 版)
「鳩の頸飾り」の記事における「執筆後の著者と作品の影響」の解説
イブン・ハズムは『鳩の頸飾り』を書いたあとも精力的に著述を続け、生涯を通して400におよぶ学術書を執筆した。イスラーム法学派においては少数派である厳格なザーヒル派(英語版)に属しており、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教を比較した『諸宗派・諸党派・諸分派についての諸章(英語版)』や、法学に関する『伝承による装飾の書』、そのほか言語、倫理、歴史などに関して著述した。 イブン・ハズムが望んだウマイヤ朝の再興は実現せず、政治の世界からは身を引いた。しかし彼は妥協しない姿勢のために論敵が多く、ほとんどの著書が生前のうちにセビリアで焼かれた。『鳩の頸飾り』の存在も長らく忘れられていたが、1冊の写本によって現代まで伝わることになる。筆写した者の詳細は不明であり、書き込みによればヒジュラ暦738年ラジャブ月(1338年2月)に行われた。筆写にあたって詩の多くを割愛して重要なものを残したと書いてあり、完本はいまだに発見されていない。 本書が書かれたのちのタイファ時代は、諸王国の分立で政治的には不安定だったが、競争によって文化はさらに活発になった。文芸の世界では俗語を取り入れるようになり、宮廷内の洗練された作品に代わって、多くの人々が創作できるようになった。ヘブライ文芸(英語版)では、イブン・ハズムと同世代の文人シュムエル・イブン・ナグレーラ(993年-1056年)が変化をもたらした。ユダヤ教徒のイブン・ナグレーラは、ヘブライ語詩にアラビア語の要素を持ち込んだ。イブン・ハズムののちの世代としては、イブン・クズマーン(英語版)(1078年 - 1160年)が放浪生活の中で吟遊詩人として活動し、アラビア語詩にアンダルスの俗語を取り入れた。
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