歴史など
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「ビシャリン・グレイハウンド」の記事における「歴史など」の解説
この犬種の先祖は他のグレイハウンドタイプの犬種と同じく古代エジプトの古代犬種チズムであると考えられている。それにアフリカニスやスピッツタイプの犬種などがかけ合わさって犬種として発展した。更に植民地時代にはさまざまな国からもたらされたグレイハウンドと交配させられて現在の姿となった。また、スーダンが植民地から解放されると同時に固定化が行われたがあまりうまくいかなかったため若干大きさに ばらつきがある。 ビシャリン・グレイハウンドは他のグレイハウンド犬種に比べると丈夫で病気に強いが、スタミナが劣っている欠点がある。それは主食が牛のミルクと残飯だけであることが原因であるといわれている。これは狩猟に用いられている犬種とは思えないほどの粗食であるが、ディンカ族の人々は貴重で栄養価の高いミルクと、自分たちのご飯を半分とっておき分け与えることで獲物を取ってくる犬たちに敬意を表しているのだという。事実、ビシャリン・グレイハウンドはビシャリン族に大切に扱われ、寝たり子育てしたりするためのスペースが設けられている。
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歴史など
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ロシアに古くから存在している犬種ではあるが、詳しい生い立ちは不詳である。本種と同じく同国原産のスホルタイという犬種の二大先祖になっているクリムスカヤよりも以前から存在していたといわれ、アフガン・ハウンド・カズニやサルーキなどとは何らかの血のつながりを持っているとされている。 先に述べたように、本種はスホルタイという犬種の二大先祖として知られているが、スホルタイの生い立ちが語られる時以外にはめったに触れられることがないため、非常に知名度が低い。ロシアでも犬種の歴史を詳しく調査している専門家以外にはまず知られることのない犬種となっている。しかし、スホルタイの歴史には絶対に欠かすことが出来ない大きな存在であるとされている。 主に1〜3頭でのサイトハント(視覚猟)に用いられていた。小型獣を鋭い視覚を駆使して捜索し、サイトハウンドの持ち味である俊足で一気に加速して獲物を仕留めた。 ゴルスカヤもクリムスカヤと同じく、スホルタイの誕生後に廃れ、いつしか絶滅してしまった。
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歴史など
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古くからロシアに存在する犬種であるが、その生い立ちなどは全く分かっていない。ボルゾイが登場する16世紀以前に誕生した犬種であるといわれている。 ゴルスカヤという犬種と共に、スホルタイという犬種の作出に大きくかかわっている2大先祖であるが、スホルタイの生い立ちが語られる時以外にはめったに触れられることがない犬種である。しかし、スホルタイの歴史には絶対に欠かすことが出来ない大きな存在であるとされている。 主にタカを伴った狩猟や、1〜3頭でのサイトハント(視覚猟)に用いられていた。いずれの狩猟形態も鋭い視覚を駆使して獲物を捜索し、サイトハウンドの持ち味である俊足で一気に加速して獲物を仕留めた。獲物は主にノウサギを狩っていた。 現在は絶滅しているが、いつごろ絶滅したかはっきりとはわかっていない。しかし、スホルタイの誕生後まもなく絶滅したと見られている。
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歴史など
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「フランセ・トリコロール」の記事における「歴史など」の解説
フランス原産のセントハウンド犬種のあるグループには、分類に際して多大な混乱を引き起こしているものがある。それは本種フランセ・トリコロールなどのフランス原産のフォックスハウンドタイプの犬種がの属している「フレンチ・ハウンド・グループ」である。フレンチ・ハウンド・グループには膨大な数の犬がリストアップされているが、どの犬を統合すべきか、独立させるか、或いはサイズによって別の種として区分するのかは専門家や愛好家によって全く統一されることなく数百年存在してきた。しかし、近年になってから世界の純血犬種の公認・保護を行っている国際畜犬団体(FCI)によって暫定的な分類の決着がつけられ、そのうちの数タイプが犬種として独立、犬種として仮公認されるようになった。 いったんフレンチ・ハウンド・グループに関する分類の混乱は沈静化されたが、立て続けにもうひとつの分類に関する混乱が起きている。それはフレンチ・ハウンド・グループの更に内側にあるグループである「アングロ=フレンチ・ハウンド」というグループの分類に関することであった。アングロ=フレンチ・ハウンドはフレンチ・ハウンド・グループの中の特定の3犬種を指すグループ名で、これには通常のフレンチ・ハウンド・グループの犬種とは異なり、3つのサイズ階級(大きい順にグラン=アングロ、モワイェン・ヴェヌリー、プティット・ヴェヌリー)があり、3犬種と3階級合わせて9犬種が確認されていた。これらはそれぞれに役割や愛好家が存在していたため急速な統一は行わず、それぞれが犬種として準公認された。ところが、そのアングロ=フレンチ・ハウンドグループの犬種にはフレンチ・ハウンド・グループの犬種と名前が全く同じ、或いは非常に似通った名前で呼ばれていたものが多かったため非常に紛らわしく、結果として愛好家や専門家でさえも誤解をするような事態を引き起こした。この混乱は現在も残っており、専門家によって犬種として見なしているものやタイプとして統一しているものがバラバラになったままになっている。この問題の改善策として各犬種・タイプの更なるスタンダード(犬種基準)強化や改名などが検討されている。尚、FCIは既出の通りフレンチ・ハウンド・グループの暫定区分は行ったが、アングロ=フレンチ・ハウンドの区分や整理は行っていない。 フランセ・トリコロールはイングリッシュ・フォックスハウンド、ポワトヴァン、ビリー、グラン・ガスコン・サントジョワなどを掛け合わせて作出された。イギリスのフォックスハウンドよりもスタミナ面やパワーを重視した改良が行われた。 主にノロジカやイノシシといった大型哺乳類をセントハント(嗅覚猟)するのに用いられる。パックで獲物の臭いを追跡し、発見すると飛び掛って噛み留めを行い主人に止めを刺してもらうか、自らの手で仕留める(主人の命令によりどちらの行動を取るかそのつど変化させる)。手に負えない獲物であっても最後まであきらめずに戦いを挑む。 現在も多くが実猟犬として飼育されていて、ペットとして迎え入れられているものは非常に稀である。原産国フランスではペット用の本種の大半が実猟犬として繁殖されたもののうちのリタイア犬であるとも言われている。もちろんペット用、及びショードッグ用としてブリードされたものもいるが、実猟犬であるという性質上ペットとしては扱いにくく、他犬種に比べるとペットとして飼われているものはとても少ない。原産国以外ではあまり飼育されていない。
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歴史など
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「マルチーズ・ポケット・ドッグ」の記事における「歴史など」の解説
ポケット・ドッグはチワワの出生が詳しく解明されていなかった1880年代ごろ、チワワの先祖ではないかと見られていた実在の犬種のひとつである。ポケット・ドッグがチワワの先祖であると信じられていた仮説のことを「マルタ島発祥説」といい、本種がメキシコに持ち込まれてチワワが作出されたという内容のものであった。しかし、マルタ島とメキシコの当時の交流は極めて少なく皆無に近かったため、現在は最も不確かな仮説であると証明され棄説されている。ちなみに、現在チワワの出生の説の定説であるとされているのは「テチチ改良説」 で、希少化し純粋繁殖の継続が困難になってしまったメキシコ原産の食用犬種、テチチの血を絶やさないため、これを用いて愛玩犬種を作出、チワワとして生まれ変わらせたという説である。この説は現地調査などによって証明され、正しい説であると広く採用されている。 先に述べたチワワの先祖ではないかという仮説により19世紀ごろに専門家に知られるようになったが、その仮説がすぐに棄説されたこともあり、ポケット・ドッグ自体についての調査はほとんど行われることがなく、すぐに忘れ去られてしまった。 ポケット・ドッグは実在し、主に愛玩犬として飼育されることを目的にブリーディングされていたことが分かっている。しかし、どの犬種から派生したのか、どの身分の人によって飼育されていたのかなどは判明していない。 現在は絶滅犬種になっており、生きた個体を見ることはできない。原産地以外では飼育されておらず、絶滅してしまったことにより本種に関する多くの謎は闇に葬られた。
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歴史など
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「ワルチング・マチルダ」の記事における「歴史など」の解説
1895年にウィントンのキャトルステーション「Dagworth Station」に滞在していたジャーナリストのバンジョー・パターソンが、婚約者(サラ・ライリー)の友人クリスティーナ・マクファーソンがツィターで奏でた行進曲風の「Thou Bonnie Wood Of Craigielea」というスコットランド音楽のメロディに歌詞を施したものである。 パターソンによる原詩は同ステーションで起きた労働闘争に関するいくつかの事件に基づき、政治的なメッセージが含まれているとされる。また、サビの歌詞はクリスティーナへの想いが込められているという研究がある。この曲の発表後、パターソンはクリスティーナとの浮気発覚により婚約を解消され、現地を去った。サラはショックで生涯独身を貫いた。その経緯からパターソンは曲や当時の出来事を語ることはなかった。この逸話は1971年にクリスティーナの手書き原稿が発見されたことで明らかになった。 完成後の初披露は1895年4月6日ノースグレゴリーホテルが定説であり、ワルチング・マチルダ・センター(記念博物館)の提案で2012年から4月6日が記念日に制定されたが、その後の研究で異論(8月説)も噴出している。 1902年に詞の権利を紅茶会社ビリー・ティー(Billy Tea)に譲渡。1903年からビリー・ティーのコマーシャルソングに使用されるようになり、この際にビリー・ティーの所有者の妻マリー・コウワンにより詞、曲ともに書き改められた。現在広く知られているのはこのコウワンのバージョンである。歌詞に焚火缶(Billycan)を意味する「ビリー(Billy)」でお湯を沸かす描写があるのはそのためである。 最初の録音(ピアノ伴奏)は1926年にイングランド出身で元豪兵のテナー歌手ジョン・コリンソンによりロンドンで行われた。 1938年に英国のトーマス・ウッドがオーケストラ編曲、バリトン歌手のピーター・ドーソン(英語版)によりヒットした。これ以降、軽快ながらも重厚な編曲が主流となる。 第二次世界大戦に入り、多数の録音が行われた。また、米海兵隊第1師団が行進曲として採用した。 戦後はバール・アイヴス、ウィリアム・クローソン(英語版)、ハリー・ベラフォンテ、ジョシュ・ホワイト(英語版)、南アのMarais & Miranda(英語版)など豪州以外のフォーク歌手によるカバーが相次いだ。 また、1956年メルボルンオリンピックに合わせてオーケストラ演奏の派手な音源が複数作成された。
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歴史など
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「ペルービアン・パグノーズド・ドッグ」の記事における「歴史など」の解説
本種の存在が初めて明らかになったのは1885年のことで、チャンカイの中央海岸地域の埋葬地で短吻種の犬の頭蓋骨が発掘されたことがきっかけである。この頭骨は驚くほど平らな(平面な)マズルを持ち、現代のペキニーズのような極端な獅子鼻であったことで話題となった。この頭蓋骨の発掘された場所の近くからはこの頭蓋骨の犬と思われるイラスト(壁画)や、11〜13世紀ごろに作られた陶製の像なども発掘された。 本種の一番の特徴である潰れた短吻の由来は、専門家の間で大きな議論を巻き起こした。短吻の犬種はもともと中国発祥で、且つ中国にしか存在しないと考えられており、どのようにして本種が生まれたのかさまざまな憶測がなされた。しかし、発見当初はどの仮説も証明するまでには至らなかった。 マズルの由来の仮説は中国の短吻愛玩犬種に由来する説、飼い主が自らマズルを潰していた説、突然変異によって誕生した独自の犬種である説などが挙げられた。長年に亘る綿密な調査により徐々に謎が解明されていき、最終的には突然変異で誕生した犬種であることが判明した。 最初に挙げられた中国の犬に由来するという仮説は、ペルー(インカ帝国)はスペイン人が侵略しに来るまで外部のものが入ってきたことはほとんど無く、ペキニーズやパグ、或いはその先祖のローツやハパ・ドッグ、オールド・パグなどのマズルが潰れた犬種が持ち込まれたという説は矛盾が多く否定された。更にペルーと中国はごく近年まで交流がほとんど無いということも指摘されており、且つ中国の短吻愛玩犬種は身分の高い人によってのみ籠愛され、簡単には外部に贈られることが無かった点もその要因のひとつである。特に近代までペキニーズは皇族によってのみ飼育され、外部に漏らした(輸出した)者は死刑に処せられたことで有名である。 飼い主自身がマズルを潰したという説は、最も早く棄説された。犬の噛み合わせを意図的に固定して不正咬合を作り出すことは可能であるが、それによってマズルが大きく潰れたり短くなることは無かったためである。 今日最も信用されている説は突然変異によって誕生した独自の犬種であるという説である。この説は突然変異よって自然に生まれたマズルの潰れた犬を神聖で稀有なものであると見なし、それを基礎犬として繁殖を行って特徴を固定させ、犬種として確立したという説である。このため、本種は外部とのかかわりが無く自然発生・作出された犬種であると考えられている。 主に本種は神聖な愛玩犬、及び特殊な儀式の際の生け贄として調理されるのに使われていたと見られている。又、主人の死後に棺に一緒に埋葬された可能性もあるが、これは主人を導くためのものなのか、死後の長旅に備える食料として埋葬されたものなのかはよく分かっていない。 現在本種は現存せず、謎が多く残っている古代犬種である。
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歴史など
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「ジャーマン・ハンティング・テリア」の記事における「歴史など」の解説
比較的に新しい犬種で、第一次世界大戦終結後、ドイツのフォックス・テリア・クラブのある会員がさらに質の高い狩猟用のテリアを作成しようとクラブを脱退、新しいクラブを作ってこの犬種の作出、改良に努めた。 作出には主にフォックス・テリアとブラック・アンド・タン・テリアが使われ、ジャーマン・ピンシャーなどもある程度つかわれた。その結果、攻撃的で俊敏で大型哺乳類などを狩ることができ、さらにバセットとレトリバーをこなすことのできる大変優れたテリアとなった。1920年代にジャーマン・ハンティング・テリア・ブリード・クラブが設立され、1950年代にはアメリカにもヤクート・テリア・クラブが結成された。 現在はその膨大な運動量などからもっぱらワーキング・ドッグとして飼われており、ペットとして迎え入れている家庭は非常に少ない。
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歴史など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 01:32 UTC 版)
元々は荒天が多く旅客需要が低下する冬期、旅客船が定期航路における運航を休止しがちな事から、これを活用して温暖地域への巡航サービスが企画されるようになったのが始まりである。その最初は、イギリスのP&O創立者の一人であるアーサー・アンダーソン(Arthur_Anderson_(businessman))が1836年にシェトランドの地方新聞の創刊号にシェトランド発着でフェロー諸島・アイスランドといった北大西洋方面を周遊する航海のアイデアを架空広告の形で掲載したことに始まり、その後P&Oが1844年にイギリスからアレクサンドリアラタ弥た多和田、マラたの航路と地中海方面への支線航路の定期船を用いる周遊券の形式で地中海クルーズ商品を開始した事例に遡る。1867年にはアメリカ・ニューヨークのキリスト教会が中心となりニューヨーク発着でヨーロッパを経由し中近東のキリスト教聖地を巡礼する165日間の航海を実施して観光クルーズの先駆けとなり、航海の様子はマーク・トウェインにより「地中海遊覧記」として著された。 1891年にはドイツのハンブルク・アメリカ・ライン(英語版)社(ハパック/ハパグ 現ハパックロイド)が同社中興の祖であるアルベルト・バリーン(英語版)の企画で、400名以上の船客を乗せての地中海クルーズを成功させ、大衆クルーズの先駆となった。ハパックではバリーンの企画によって1900年には4,500tクラスのクルーズ専用船「プリッツェリン・ヴィクトリア・ルイーズ」(Prinzessin Victoria Luise)も建造、就航させている。 クルーズ運航は、このように大手海運会社の閑散期経営対策として19世紀から20世紀前半にかけて定着し、また一方では中・小型の旧式客船をクルーズ向けに改装した客船により、アメリカ東海岸からのカリブ海方面クルーズの普及などで大衆化も進んでいった。 第二次世界大戦後、大西洋横断航路に代表される大型長距離客船が、1950年代に起きた急激な航空機の発達(ジェット旅客機の実用化と普及)でその本来の役割を終えると、大手海運会社は貨物輸送に経営比重を移す一方で、既存の大型客船を通年にわたりクルーズ船として運航し、新たな収益手段として活用するようになった。その過程では当初、かつて主要航路で運航された有名客船が多く改装・転用される事例が見られたが、大陸間を高速巡航で結ぶ往年のオーシャン・ライナーと、速度を重要としない「浮かぶ豪華ホテル、リゾート」としてのクルーズ船の性格は相違することから、新たに建造されるクルーズ船は速度よりも快適性や収容能力を追求する目的で、オーシャン・ライナーよりも経済性重視の低速、かつ大型な、古典的客船とは異質な船形に変貌していった(クルーズ船のデザインも参照)。 1965年建造のMarco Polo。 Mardi Gras。1961年建造。1972–1993にカーニバルクルーズライン社で運航。 Song of Norway(1970年建造、ロイヤル・カリビアン・インターナショナル社で運航。) 20世紀末期からは、カーニバル・コーポレーション(1972年創立)などを代表とする、大規模資本を投入したクルーズ船専業海運会社が、10万トンを超える巨大クルーズ船を複数建造・運航するようになり、そのバリエーションも多彩なものとなっている。 2020年、2019新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、クルーズ客船は軒並み運航停止に追い込まれた。2020年5月時点でアメリカ領海内で投錨しているのは23隻、港に停泊中のものは24隻、領海内を移動しているものは44隻となっている。
※この「歴史など」の解説は、「クルーズ客船」の解説の一部です。
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