放浪生活
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1908年2月、妹パウラを異母姉アンゲラの嫁いだラウバル家に預けて再び首都ウィーンに舞い戻ると今度は生活拠点も移し、シュトゥンペル街に下宿先を借りた。程なくして音楽学校に合格したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿先で共同生活を送るようになった。ウィーンの裏通りにある下宿先は月20クローネの2人部屋で、ゆったりとした生活スペースにクビツェクが練習用に借りたグランドピアノと2つのベッドが置かれていた。朝に学校に向かうクビツェクに対してヒトラーは部屋で寝ており、帰ってきたクビツェクがピアノの練習する時間帯になると図書館や公園に出かけていった。時に昔のように2人で美術館や街の散策に出かけると、美術上の知識や持論を延々と語っていた。クビツェクが音楽学校の休暇でリンツに帰った後も滞在を続け、手紙のやり取りをしている。 すでにヒトラーは父からの遺産分与700クローネをある程度使用しており、また母親の葬儀費用などで370クローネを支払っているが、母からは父の遺産全額の3000クローネが残されたし、また妹パウラとヒトラーが24歳になるか就業するまでは孤児保護の恩給として月50クローネの受給もオーストリア・ハンガリー政府から認められた。ヴェルナー・マーザーとフランツ・イェッツインガーは、更にクララの叔母であるワルブルガ・ロメダーの遺産の一部、最低でも数百クローネがクララを通じて入ってきていたと指摘している。孤児恩給の半額は妹パウラを引き取った義姉アンゲラに養育費として渡されたが、10代の青年としては十分過ぎる程の遺産と当面の生活費が残されたのであり『わが闘争』にあるような無一文でウィーンにやってきたような描写とは異なる。またシュトラールは「遺産を受け取り、労働が可能で、かつ就学もしていないヒトラーの身の上を鑑みればパウラが恩給の全額を受け取る権利があったにもかかわらず、妹や後見人に無断で勝手に孤児恩給の申請書を出すなど策を巡らし、学校に通っていた妹から半分恩給を奪い取っている」と指摘している。 1908年末、この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。2度目の試験では実技試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていた。同年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗したことを知られたくなかったためと、徴兵忌避のためとであった。ウィーンに戻ったクビツェクの側も特に行方を捜すことはなかった。ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には住所不定無職の人物として浮浪者収容所に入り、次いでメルデマン街にある独身者用の公営寄宿舎に移り住んだ。経済上のことというよりは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるためであったと見られている(兵役逃れ)。この寄宿舎は休憩室や読書室を備え、就寝室は個室になっており、食事も安く、正業を持っているものも一時的に利用することがある施設であった。ヒトラーはこの頃絵葉書や版画の模写をおこない、インテリ層や商人などに絵画を売ることもあった。売り込みはラインホルト・ハーニッシュ(ドイツ語版)が行い、売上は折半していた。 1911年、姉アンゲラから孤児恩給全額を妹パウラに譲るようにリンツ地区裁判所で訴訟を起こされた。この背景には叔母ハンニからヒトラーが可愛がられており、遺産となる財産のほとんどをヒトラーの「芸術活動」に援助していたことに、夫ラウバルの死後も妹パウラを養い女子実科中等学校にも通わせていたアンゲラが憤慨したためである。ハンニがヒトラーに与えた財産がどの程度だったのは定かではないが、ハンニの死後その預金3800クローネが引き出されたにもかかわらず、ハンニの実妹は遺産を相続していないため、少なくとも2000クローネ程度は援助されていたと見られている。仮に今までの生活で父母の遺産を使い果たし、孤児恩給を失ったとしても、今度は叔母ハンニの財産でまだ数年は「寝て暮らせる」生活であった。また遺産を取り崩しながらの生活ながら自作の絵葉書や風景画を売ることで小額の生活費は稼いでいた。ヒトラー自身も『我が闘争』の中で「ささやかな素描家兼水彩画家として独立した生活を送っていた」と記述しており、裁判において「自分で生活できる」と証言し、孤児恩給の放棄に同意した。 この頃ヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていた。キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといわれる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。1913年の頃のヒトラーはイエズス会や共産主義を批判していたが、反ユダヤ主義的な発言の記録はない。ヒトラーは絵画をユダヤ人画商に好んで売り、ユダヤ人は頭がよく協力しあうと称賛することもあったし、ユダヤ系画商との夕食会に参加するなど親睦も結んでいた。一方で、ユダヤ人種は体臭が違うし、ユダヤの血はテロに走りやすいとも述べていた。またクビツェクは「リンツにいた頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている。
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放浪生活
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「マーシャル・アップルホワイト」の記事における「放浪生活」の解説
1975年まで、アップルホワイトとネトルズは、それぞれ「ボー (Bo)」、「ピープ (Peep)」という名前を使用していた。彼らは70人ほどの信者を獲得し、彼らを群れを指揮する指導者であると見做していた。アップルホワイトは、地球上の欲望からの完全な分離は「次のレヴェル (the Next Level)」への昇天の前提条件であると信じており、新約聖書においてイエスが世俗的な愛着を捨て去ることについて語っている一節を強調していた。信者達は家族や友人、酒類、頭髪、財産、性欲など様々な事物を放棄するように指導された。その上、彼らは聖書の名前を受け入れることを求められていた。アップルホワイトとネトルズは、短期間の間に、彼らに二音節の名前を受け入れるように語った。これらの名前は、「オディ (ody)」で終わる名前であり、かつ最初の音節に3つの子音を持つ名前であった。この例として、Rkkody、Jmmody、Lvvodyなどが挙げられる。アップルホワイトは、これらの名前が、彼の信者達が霊的な子供達(spiritual children)であると強調していると述べている。アップルホワイトとネトルズ、彼らの信者達は、宗教学者・ジェームズ・R・ルイス(英語版)に「準遊牧生活 (quasi-nomadic lifestyle」と言及された様な生活をしていた。彼らは、通常は人里離れたキャンプ場に滞在しており、彼らの思想について話すこともなかった。アップルホワイトとネトルズは、1975年4月を最後に公の集会を終わらせた。そして、改宗者達に彼らの教義を教えにも殆ど時間を使わなかった。指導者達は、分散している信者達に連絡を取ることはほとんどなく、彼らの多くが忠誠を放棄した。 アップルホワイトとネトルズは、暗殺されることを恐れており、信者達については、彼らの死はヨハネの黙示録の二人の証人の物と同等のものであると考えていた。バルチとテイラーは、アップルホワイトの監獄体験と、初期に聴衆から拒絶されたことが、この恐怖に拍車をかけたと信じている。アップルホワイトとネトルズは、後に信者達に、報道に於ける先人たちの扱いは、暗殺の一形態であり、彼らの予言を果たしたものであったと説明した。アップルホワイトは、聖書の唯物論的見解を採っており、地球外生命体が人類とコンタクトを取った記録であると見做していた。彼は、ヨハネの黙示録からかなりの描写を行っていたにも関わらず、伝統的な神学用語を避け、キリスト教に対しては幾分ネガティブな扱いを行っていた。彼は、少数の節を教えるのみで、神智学の体系を発展させることに挑戦することは一度としてなかった。 1976年初頭までに、アップルホワイトとネトルズは、彼らの名前を「ドウ (Do)」と「タイ (Ti)」としている。アップルホワイトによれば、この名前は意味を持たない名前であるという。1976年6月、彼らは、UFOの飛来の期待があるとして、ワイオミング州南東部にあるメディシン・ボウ=ルート国有林(英語版)に当時の信者達と集った。ネトルズは後に、UFOの飛来はキャンセルされたと周知している。アップルホワイトとネトルズは、彼らの信者達を、「スター・クラスターズ (Star Clusters)」と呼ばれた小さなグループへと振り分けた。 1976年から1979年の間、この教団はキャンプ場に滞在しており、通常はテキサス州かロッキー山脈に居た。アップルホワイトとネトルズは、信者間のメンバーシップ向上のために、信者達のこれまでの緩やかに組織化された生活に大きな要求を課し始めた。彼らは通常、門弟たちとは筆談かアシスタントを通じてコミュニケーションをとっていた。より一層、彼らは、彼らが唯一の真実の源であると強調した。この時、団体の分裂を防ぐため、信者達が個別に啓示を受けることが出来るという考えは否定された。また、信者達が犯行に至るおそれがあったことから、信者同士が親しくなることを防ごうとした。さらに、二人のしばしば変化する要求に対して厳格に従うことは「柔軟性 (flexibility)」と呼ばれ、教団内では「柔軟性」を持つことが求められた。加えて、二人の指導者達は、表向きは敵対組織からスパイを送り込まれることを防ぐため、信者および入信希望者に対し、教団外部への連絡を制限していた。実際問題として、この環境が、信者達を完全に指導者達に依存するようにしたのである。アップルホワイトは、門弟たちに対して、子供かペットの様に、指導者の命令に服従するように指導を行っている―彼らの唯一の義務は、指導者に服従することだったのである。信者達は、定期的にアップルホワイトの説教を求めるように、しばしば決断をしなければならないときには、彼らの指導者が望む物は何かを彼ら自身に問うように奨励された。アップルホワイトは信者達にて尊大にふるまうことはなく、多くの信者にはのんびりとした慈父のような人として映っていた。2000年の彼らの研究グループにおいて、ウィンストン・デーヴィス (Winston Davis)は、アップルホワイトが「宗教的なエンターテインメントのファインアート」をマスターしており、彼らの門弟たちはそのサービスを楽しんでいたにすぎないのだろうと述べている。アップルホワイトは、表面上は任意のものとして、信者達に戒律の感覚を植え付けるための儀式を執り行っていた。彼はこれらの儀式を「ゲームス (games)」として呼んでいた。また、彼はサイエンス・フィクションテレビ番組を信者達と共に見ていた。直接命令を下すよりも、彼は自身の好みを表現したり、表面上は門弟たちに選択肢を与えるようにしていた。彼は、生徒(信者)達は選択さえすれば反抗することも自由であると強調していた。これについて、ラリックは「選択の幻想 (illusion of choice)」と呼んだ。
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