放浪期(1944-1952)
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「一宮市立図書館」の記事における「放浪期(1944-1952)」の解説
一宮市は1945年(昭和20年)に2度にわたる一宮空襲を受け、図書館付近も壊滅的な被害を受けた。商工会議所、借家、熊沢女学校、一宮市立大志小学校、熊沢保育園と、太平洋戦争末期からの8年間は仮館を転々としている。 1944年3月1日、一宮市立図書館は公園通2丁目11番地にある一宮商工会議所に移転し、1階の3部屋を間借りして図書館業務を再開した。この建物は名鉄一宮線(1965年に廃線)東一宮駅の南側にあり、木造スレート葺の洋風建築だった。大志小学校、愛知県立一宮中学校、愛知県立一宮商業学校などに近く、1944年の1日平均閲覧者は57.9人、その内訳は学生44.6%などだった。 しかし、1945年2月6日には一宮商工会議所が中部第4145部隊一宮分遣隊に貸与されることとなったため、2月11日には道路を挟んで向かい側の公園通2丁目8番地にあった伊藤宗祐宅(個人宅)に移転した。賃貸料は1か月55円、1階を書庫や事務室、2階を閲覧室として使用した。本土空襲が激化すると図書疎開が行われ、浅野国民学校に5,000冊、西成国民学校に3,700冊、瀬部国民学校に850冊、赤見国民学校に690冊が運ばれた。利用度の高い大衆文学・産業・工業・軍事などの書籍は伊藤宅の仮館に残されたが、1945年7月28日から29日にかけての空襲で一宮市街地は焼け野原となり、疎開しなかった書籍はすべて焼失した。図書台帳などの重要書類は地下1mの簡易地下室に運び込まれており、焼失を免れている。なお、瀬部国民学校に疎開した書籍の一部も焼失している。 1945年11月15日には川田町4丁目11番地にある私立一宮実科高等女学校(通称熊沢女学校、現在の大志保育園の場所)の2階を仮館として図書館業務を再開した。一宮市の南東部という立地ながら、1日平均約50人の閲覧者があった。戦後には一宮市当局の命により、軍事や日本精神をうたった本など301冊を焼却処分(焚書)している。1946年(昭和21年)8月以降には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命により国家主義的図書が没収された。戦争で焼失した書籍は計4,876冊であり、最終的に戦中戦後の混乱期に失った書籍は約8,000冊に達した。1946年の一宮市は昭和天皇による戦災慰問を受けた。 1947年(昭和22年)4月には熊沢女学校から一宮市立大志小学校に移転した。大志小学校は一宮市の5小学校のうち唯一戦争時に焼失を免れた小学校である。正面玄関北隣の2教室を用い、1教室を書庫と事務室として、もう1教室を閲覧室としたが、小学校の児童や職員以外の来館者は少なかった。1947年9月1日には名古屋市内で小学校長を務めていた田中新男が司書に嘱託された。田中は初代専任館長とされている。 1948年(昭和23年)9月末頃には大志小学校から川田町の熊沢保育園に移転した。1949年(昭和24年)から1952年(昭和27年)にかけて、一宮市立図書館は「ショパン鑑賞会」、「ゲーテ講演会」、「バッハ音楽会」、「現代詩研究講座」、「文化財講演会」、「正岡子規展示会・講演会」などを主催している。1950年(昭和25年)に図書館法が制定されると、一宮市立図書館では図書の閲覧料金制度を撤廃し、館外貸出に対する補償金制度も撤廃した。なお、これ以後も延滞した場合には延滞料として1日5円を徴収している。
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