放浪期とは? わかりやすく解説

放浪期(1944-1952)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:55 UTC 版)

一宮市立図書館」の記事における「放浪期(1944-1952)」の解説

一宮市1945年昭和20年)に2度にわたる一宮空襲を受け、図書館付近壊滅的な被害受けた商工会議所借家熊沢女学校一宮市立大志小学校熊沢保育園と、太平洋戦争末期からの8年間は仮館を転々としている。 1944年3月1日一宮市立図書館公園通2丁目11番地にある一宮商工会議所移転し1階3部屋を間借りして図書館業務再開した。この建物名鉄一宮線1965年廃線東一宮駅南側にあり、木造スレート葺の洋風建築だった。大志小学校愛知県一宮中学校愛知県一宮商業学校などに近く1944年1日平均閲覧者は57.9人、その内訳は学生44.6%などだった。 しかし、1945年2月6日には一宮商工会議所中部第4145部隊一宮分遣隊貸与されることとなったため、2月11日には道路挟んで向かい側公園通2丁目8番地にあった伊藤宗祐宅(個人宅)に移転した賃貸料1か月55円、1階書庫事務室2階閲覧室として使用した本土空襲激化する図書疎開が行われ、浅野国民学校に5,000冊、西成国民学校に3,700冊、瀬部国民学校850冊、赤見国民学校690冊が運ばれた。利用度の高い大衆文学産業工業軍事などの書籍伊藤宅の仮館に残されたが、1945年7月28日から29日にかけての空襲一宮市街地は焼け野原となり、疎開しなかった書籍はすべて焼失した図書台帳などの重要書類地下1mの簡易地下室運び込まれており、焼失免れている。なお、瀬部国民学校疎開した書籍一部焼失している。 1945年11月15日には川田町4丁目11番地にある私立一宮実科高等女学校通称熊沢女学校現在の大志保育園の場所)の2階を仮館として図書館業務再開した一宮市南東部という立地ながら、1日平均50人の閲覧者があった。戦後には一宮市当局の命により、軍事日本精神うたった本など301冊を焼却処分焚書)している。1946年昭和21年8月以降には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命により国家主義的図書没収された。戦争焼失した書籍は計4,876冊であり、最終的に戦中戦後の混乱期失った書籍は約8,000冊に達した1946年一宮市昭和天皇による戦災慰問受けた1947年昭和22年4月には熊沢女学校から一宮市立大志小学校移転した大志小学校一宮市の5小学校のうち唯一戦争時焼失免れた小学校である。正面玄関北隣の2教室用い、1教室書庫事務室として、もう1教室閲覧室としたが、小学校児童職員以外の来館者は少なかった1947年9月1日には名古屋市内で小学校長を務めていた田中新男が司書嘱託された。田中初代専任館長とされている。 1948年昭和23年9月末頃には大志小学校から川田町熊沢保育園移転した1949年昭和24年)から1952年昭和27年)にかけて、一宮市立図書館は「ショパン鑑賞会」、「ゲーテ講演会」、「バッハ音楽会」、「現代詩研究講座」、「文化財講演会」、「正岡子規展示会講演会」などを主催している。1950年昭和25年)に図書館法制定されると、一宮市立図書館では図書閲覧料金制度撤廃し館外貸出対す補償金制度撤廃した。なお、これ以後延滞した場合には延滞料として1日5円徴収している。

※この「放浪期(1944-1952)」の解説は、「一宮市立図書館」の解説の一部です。
「放浪期(1944-1952)」を含む「一宮市立図書館」の記事については、「一宮市立図書館」の概要を参照ください。

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