放浪生活のはじまりと『銀の匙』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 00:05 UTC 版)
「中勘助」の記事における「放浪生活のはじまりと『銀の匙』」の解説
大学卒業後、1910年(明治43年)に勘助は一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊するが、翌1911年(明治44年)4月に衛戍病院に入院することになり、同年6月頃には除隊となった。同年9月、除隊となった勘助は野尻湖弁天島に向かい、そこに籠もるようになる。 1912年(大正元年)夏から秋にかけて、野尻湖畔で「銀の匙」を執筆する。同年7月には、小宮豊隆の勧めで「夢の日記」を雑誌『新小説』に大内生名義で発表し、作家としての一歩を踏み出した。その後、「銀の匙」の前篇部分を書き上げた勘助は、学生時代の恩師である漱石にその原稿を送付した。「銀の匙」は漱石から高く評価され、漱石の推薦もあり1913年(大正2年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上に那珂名義で連載される。 1914年(大正3年)6月末には、比叡山横川・慧心院で「つむじまがり」を執筆し、同じく漱石の推薦で翌1915年(大正4年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上で連載された。
※この「放浪生活のはじまりと『銀の匙』」の解説は、「中勘助」の解説の一部です。
「放浪生活のはじまりと『銀の匙』」を含む「中勘助」の記事については、「中勘助」の概要を参照ください。
- 放浪生活のはじまりと『銀の匙』のページへのリンク