なか‐かんすけ【中勘助】
中勘助
中勘助の俳句 |
雪女郎に恋はありけり寒椿 |
中勘助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/10 15:16 UTC 版)
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される[1][2]。
注釈
- ^ 昭和通りと神田平成通りが交差する「東松下町」交差点南西あたり[3]
- ^ 『銀の匙』に登場する、幼少期の主人公を慈しんで育てる「伯母」のモデルとなった人物。『銀の匙』初出時をはじめ文献によっては「叔母」「父の妹」などとされているが、現在の『銀の匙』本編や解説、年譜および近年の研究書では「母方の伯母」とされていることから本稿ではそちらに拠った。なお、伯母の実名や生没年等については不詳。
- ^ 現在の『銀の匙』後篇にあたる部分
- ^ 作家としての活動は、1917年(大正6年)に前年亡くなった漱石との思い出を綴った随筆「夏目先生と私」を『三田文学』に発表した程度だった。
- ^ 「犬」はその後単行本に収録された際にも一部を伏字にされ、角川書店版『中勘助全集』では削除される処置がなされた[9]。前者は、保護期間が満了したことから国立国会図書館デジタルコレクションにてインターネット公開されており、どのような処置がなされているか確認できる[10]
- ^ 当日は大安の月曜日だった。
- ^ 金一が自殺したことは長らく非公表とされてきたが、末子の兄の孫にあたる菊野美恵子が2001年になって初めて公表したことで明らかとなった[11]。
- ^ この樟ヶ谷の建物(杓子庵)は現在も残されており、1995年(平成7年)より「中勘助文学記念館」として一般に開放されている。
- ^ この話を和子から聞いた稲森道三郎は、勘助の父である勘弥が脳溢血により死去したことを付記している[12]
- ^ 妻・和子の妹・嶋田豊子のこと。
出典
- ^ 『中勘助全集』(角川書店)の帯文より。
- ^ 木内英実「あとがき」『神仏に抱かれた作家 中勘助』三弥井書店、2017年、pp.272-274
- ^ a b 堀部功夫「年譜」中勘助『銀の匙』(角川文庫、KADOKAWA、2013年改版)
- ^ a b c d e f g 渡辺外喜三郎「年譜」渡辺外喜三郎編『中勘助随筆集』(岩波文庫、岩波書店、1985年)
- ^ a b 筑摩書房編集部「年譜」中勘助『中勘助』(ちくま日本文学全集 029、ちくま文庫、筑摩書房、1992年)
- ^ a b c d e 木内英実「中勘助 略年譜」『神仏に抱かれた作家 中勘助』三弥井書店、2017年
- ^ 富岡多惠子『中勘助の恋』創元社、1993年、p.23
- ^ 中勘助「漱石先生と私」『中勘助全集』岩波書店
- ^ a b 中勘助「あとがき」小宮豊隆・和辻哲郎編『中勘助全集』第2巻、角川書店、1961年
- ^ 犬 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 菊野美恵子「中勘助と兄金一--『銀の匙』作者の婚礼の日、兄が縊死した……衝撃の新事実」『新潮』98-7、2001年7月、pp.246-264
- ^ a b 稲森道三郎「二人静 ――先生の死――」『中勘助全集 月報17』(『中勘助全集』第17巻(岩波書店、1991年)所収)pp.7-10
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)230頁
- ^ 野村靖『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ ドイツに留学した日本人物理学者たち堅田智子・稲葉肇・有賀暢迪 Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 41, pp. 7–21, December 21, 2018
中勘助と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 中勘助のページへのリンク