同人結成の経緯とは? わかりやすく解説

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同人結成の経緯(第一次)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 14:04 UTC 版)

種蒔く人」の記事における「同人結成の経緯(第一次)」の解説

クラルテ運動」を日本広めることを期して帰国した小牧であったが、帰国当初活動端緒を見つけられないまま外務省嘱託として勤務することとなった。在仏中に武者小路実篤の『或る青年の夢』を読んで感銘受けた小牧は、武者小路自身思想理解者考え帰国後に宮崎県木城村まで赴いてクラルテ運動への協力要請したが、そこでは賛同断られ代わりに有島武郎紹介されていた。そのような折、小牧土崎尋常高等小学校時代級友である金子洋文が、外務省まで電話掛けて小牧連絡送ってきた。秋田代用教員務めかたわら独学エドワード・カーペンター空想的社会主義心酔していた金子は、外務省勤務していた帰国当初小牧から距離を置いていたが、近江谷栄治通じて小牧社会主義思想傾倒していたことを知り連絡求めてきたのである。この邂逅きっかけとなって雑誌発行相談が行われ、さらに同じく金子級友である今野賢三有島武郎弟子になっていたという奇縁重なって故郷旧友親族集めて雑誌づくりが始まったのである小牧生家である近江谷家一族内の同人誌持ち続け文学的な結びつきが強い一族であったことも雑誌発行下地となった。こうして集められ同人には従弟でかつ暁星中学校時代友人であり、『種蒔く人発刊前年故郷秋田県革新的青年会赤光会」を結成した仲である畠山治郎や、同年代叔父であり同じく暁星中学通った近江谷友治がいた。このような小牧生家である近江谷家通じた血縁地縁的つながりによって、雑誌種蒔く人』の刊行準備されのである

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同人結成の経緯(第二次)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 14:04 UTC 版)

種蒔く人」の記事における「同人結成の経緯(第二次)」の解説

1921年大正10年4月をもって一旦発行休止した種蒔く人』が、再刊目指す大きなきっかけとなったのが、フランス詩人外交官でもあったポール・クローデル来日である。この時のレセプション準備通じてフランス文学愛好家交流する機会多く持った小牧は、『種蒔く人』の活動について多く人々説明して回り幾人かの賛同者を得るところとなった村松正俊佐々木孝丸小牧フランス文学仲間であると同時に1921年第2回メーデー参加通じて関係を深めた仲である。 また、種蒔く人』の刊行休止した後も、発行元である「種蒔き社」は、南秋田郡一日市町行われた赤光会主催の講演会参加しており、その活動継続していた。このような土崎版」から継続した体制新たに集められ同人たちのもと、『種蒔く人』の再刊準備されていったのである。 こうして再刊向けた同人集めが行われ、「土崎版」に参加していた小牧金子今野および山川亮に加えて村松正俊佐々木孝丸柳瀬正夢松本弘二が新たに参加したこのうち村松佐々木先述通り小牧フランス文学仲間柳瀬雑誌我等通じて村松誘ったもの、雑誌解放編集者であった松本金子誘ったのであるまた、近江谷友治、畠山治郎は同人から離れたが、小牧決別した訳でなく、その後秋田にて『種蒔く人』を側面から支えていくことになる。フランス帰り人脈乏し小牧にとって執筆陣確保難渋したが、「東京版」の『種蒔く人』はこの8人の同人によって発足することとなった。なお、「東京版創刊号冒頭では、同人とは別に執筆家」として以下の名前挙げている。 秋田雨雀 馬場孤蝶 エドワド・カーペンタ 江口渙 藤井眞澄 福田正夫 ポール・ジル 林倭衛 石川三四郎 加藤一夫 宮地嘉六 百田宗治 ポール・ルクリュ 富田砕花 吉江喬松 有島武郎 アンリ・バルビュス クリスチァン・コルネリセン ワシリイ・エロシェンコ 藤森成吉 アナトル・フランス 長谷川如是閑 平林初之輔 神近市子 川路柳虹 宮島資夫 小川未明 白鳥省吾 山川菊栄

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同人結成の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:53 UTC 版)

青空 (雑誌)」の記事における「同人結成の経緯」の解説

大宅壮一飯島正浅野晃らと同じ第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)を2年遅れで卒業し1924年大正13年4月大宅らと同じ東京帝国大学進んだ梶井基次郎文学部英文科)、中谷孝雄文学部独文科)、外村茂経済学部経済学科)は、大宅らが第七次『新思潮発刊計画をしていることを知って刺激され自分たちも前々から創りたかった同人雑誌発刊する計画本格的に始動した京都から東京来て梶井基次郎本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区本郷2丁目3913号)の平館支店下宿し近く本郷台町の高洲館に下宿先決めた中谷孝雄頻繁に行き来していた。父親東京日本橋高田馬場蒲団木綿問屋店舗構えていた外村茂は、自宅別宅麻布区麻布市兵衛町2丁目55(現・六本木)から通学し、この邸宅婆や2人住んでいた。 3人は、三高出身小林馨文学部仏文科)、忽那吉之助文学部独文科)の2人同人加えることにした。小林馨三高劇研究会の仲間で、忽那吉之助は、中谷孝雄落第してクラスになった縁で親しくなり、帝大も同じ学科進んでいた。もう1人中谷三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校時代後輩で、早稲田大学国文科新進歌人稲森宗太郎仲間誘った梶井中谷外村の3人は京都にいる時から、同人誌創るとしたら誌名を「」にしようか話していた。これは三高劇研究会の会合の後によく通った祇園神社石段下の北側の店「カフェー・レーヴン」からの思いつきで、エドガー・アラン・ポーの詩に「大鴉」があったことも由来していた。しかし梶井はこの「」という名には不満を持っていた。

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