同人結成の経緯(第一次)
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「種蒔く人」の記事における「同人結成の経緯(第一次)」の解説
「クラルテ運動」を日本に広めることを期して帰国した小牧であったが、帰国当初は活動の端緒を見つけられないまま外務省嘱託として勤務することとなった。在仏中に武者小路実篤の『或る青年の夢』を読んで感銘を受けた小牧は、武者小路を自身の思想の理解者と考え、帰国後に宮崎県木城村まで赴いてクラルテ運動への協力を要請したが、そこでは賛同を断られ、代わりに有島武郎を紹介されていた。そのような折、小牧の土崎尋常高等小学校時代の級友である金子洋文が、外務省まで電話を掛けて小牧に連絡を送ってきた。秋田で代用教員を務めるかたわら、独学でエドワード・カーペンターの空想的社会主義に心酔していた金子は、外務省に勤務していた帰国当初の小牧から距離を置いていたが、近江谷栄治を通じて小牧が社会主義思想に傾倒していたことを知り連絡を求めてきたのである。この邂逅がきっかけとなって雑誌発行の相談が行われ、さらに同じく金子と級友である今野賢三が有島武郎の弟子になっていたという奇縁も重なって、故郷の旧友や親族を集めての雑誌づくりが始まったのである。小牧の生家である近江谷家が一族内の同人誌を持ち続け、文学的な結びつきが強い一族であったことも雑誌発行の下地となった。こうして集められた同人には従弟でかつ暁星中学校時代の友人であり、『種蒔く人』発刊の前年に故郷の秋田県で革新的青年会「赤光会」を結成した仲である畠山松治郎や、同年代の叔父であり同じく暁星中学に通った近江谷友治がいた。このような小牧の生家である近江谷家を通じた血縁・地縁的なつながりによって、雑誌『種蒔く人』の刊行が準備されたのである。
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同人結成の経緯(第二次)
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「種蒔く人」の記事における「同人結成の経緯(第二次)」の解説
1921年(大正10年)4月をもって一旦発行を休止した『種蒔く人』が、再刊を目指す大きなきっかけとなったのが、フランスの詩人で外交官でもあったポール・クローデルの来日である。この時のレセプションの準備を通じてフランス文学愛好家と交流する機会を多く持った小牧は、『種蒔く人』の活動について多くの人々に説明して回り、幾人かの賛同者を得るところとなった。村松正俊、佐々木孝丸は小牧のフランス文学仲間であると同時に、1921年の第2回メーデー参加を通じて関係を深めた仲である。 また、『種蒔く人』の刊行が休止した後も、発行元である「種蒔き社」は、南秋田郡一日市町で行われた赤光会主催の講演会に参加しており、その活動を継続していた。このような「土崎版」から継続した体制と新たに集められた同人たちのもと、『種蒔く人』の再刊が準備されていったのである。 こうして再刊に向けた同人集めが行われ、「土崎版」に参加していた小牧、金子、今野および山川亮に加えて、村松正俊、佐々木孝丸、柳瀬正夢、松本弘二が新たに参加した。このうち村松と佐々木は先述の通り小牧のフランス文学仲間、柳瀬は雑誌我等を通じて村松が誘ったもの、雑誌解放の編集者であった松本は金子が誘ったものである。また、近江谷友治、畠山松治郎は同人から離れたが、小牧と決別した訳でなく、その後も秋田にて『種蒔く人』を側面から支えていくことになる。フランス帰りで人脈の乏しい小牧にとって執筆陣の確保は難渋したが、「東京版」の『種蒔く人』はこの8人の同人によって発足することとなった。なお、「東京版」創刊号の冒頭では、同人とは別に「執筆家」として以下の名前を挙げている。 秋田雨雀 馬場孤蝶 エドワド・カーペンタ 江口渙 藤井眞澄 福田正夫 ポール・ジル 林倭衛 石川三四郎 加藤一夫 宮地嘉六 百田宗治 ポール・ルクリュ 富田砕花 吉江喬松 有島武郎 アンリ・バルビュス クリスチァン・コルネリセン ワシリイ・エロシェンコ 藤森成吉 アナトル・フランス 長谷川如是閑 平林初之輔 神近市子 川路柳虹 宮島資夫 小川未明 白鳥省吾 山川菊栄
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同人結成の経緯
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大宅壮一、飯島正、浅野晃らと同じ第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)を2年遅れで卒業し、1924年(大正13年)4月に大宅らと同じ東京帝国大学に進んだ梶井基次郎(文学部英文科)、中谷孝雄(文学部独文科)、外村茂(経済学部経済学科)は、大宅らが第七次『新思潮』発刊の計画をしていることを知って刺激され、自分たちも前々から創りたかった同人雑誌を発刊する計画を本格的に始動した。 京都から東京に来て、梶井基次郎は本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区本郷2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿し、近くの本郷台町の高洲館に下宿先を決めた中谷孝雄と頻繁に行き来していた。父親が東京日本橋と高田馬場で蒲団木綿問屋の店舗を構えていた外村茂は、自宅別宅の麻布区麻布市兵衛町2丁目55(現・六本木)から通学し、この邸宅で婆やと2人で住んでいた。 3人は、三高出身の小林馨(文学部仏文科)、忽那吉之助(文学部独文科)の2人も同人に加えることにした。小林馨は三高劇研究会の仲間で、忽那吉之助は、中谷孝雄が落第して同クラスになった縁で親しくなり、帝大も同じ学科に進んでいた。もう1人、中谷の三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)時代の後輩で、早稲田大学国文科の新進歌人・稲森宗太郎も仲間に誘った。 梶井、中谷、外村の3人は京都にいる時から、同人誌を創るとしたら誌名を「鴉」にしようかと話していた。これは三高劇研究会の会合の後によく通った祇園神社の石段下の北側の店「カフェー・レーヴン」からの思いつきで、エドガー・アラン・ポーの詩に「大鴉」があったことも由来していた。しかし梶井はこの「鴉」という名には不満を持っていた。
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