外務省嘱託
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その後近衛のコネを使い外務省嘱託職員を務めていたが、有資格者ではなかったために重要な案件に関係できなかったことを不服に思い辞職し、1936年(昭和11年)にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任。 同年7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦のコネにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実だった。なお尾崎とは帰路も同室になった。 なおこの頃中国の秘密結社についても研究しており、また中華民国における共産主義運動に関心を持っていた。1937年(昭和12年)に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎らとともに軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また日中戦争下で「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。 1940年(昭和15年)9月には再度外務省嘱託職員となり、この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、ヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニとも会っているが、なんの実績もないために目立った活動はしていない。
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