外務省政務次官 (1895年-1898年)
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「ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)」の記事における「外務省政務次官 (1895年-1898年)」の解説
1895年から1898年までは外務政務次官(英語版)を務めた。当時の外務大臣は首相であるソールズベリー侯の兼任だったので実質的には外務大臣代行的な立場であった。この就任に際して枢密顧問官にも列している。 1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国大陸をめぐる情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府はロシアとフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目となったが、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊したのである。 カーゾンはとりわけロシアの清への帝国主義的進出を憂慮していた。1897年12月にロシアが旅順に軍艦を送って同港を軍事的支配下に置いたとの報告が英国外務省に入った際、カーゾンは首相ソールズベリー侯に宛てて「ロシアが旅順を占領するならロシアは水路からも清へ侵入するようになる。我が国は従来から清において軍事的・経済的優越を有してきたが、このような状況は変化しつつある。」という報告書を書き、ソールズベリー侯に中国情勢に危機感を持たせることに貢献した。 その後、ソールズベリー侯は露仏に対抗して中国内におけるイギリスの勢力圏を固めることに心を砕くようになった。そうした中の1898年4月にカーゾンはソールズベリー侯に宛てた報告書の中で「私は揚子江流域の人口は1億5000万人、つまり清の全人口の三分の二と算定している。これまで50年間我々は揚子江流域を統治しようと思ってもできなかった。しかし鉄道という物は首相の考えられる勢力圏の樹立のために最善の方法である」と論じて、揚子江流域へのイギリス鉄道の建設を推進した。 1895年にはアメリカ合衆国、シカゴの富豪の娘メアリー・ヴィクトリア・レイター(英語版)と結婚した。
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