外務省発表への批判
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「日本統治時代の朝鮮人徴用」の記事における「外務省発表への批判」の解説
外務省の見解については発表直後から在日コリアンによって批判された。朝日新聞1959年7月14日記事によれば、朝鮮総連が具体的な数字を挙げて反論の声明を出した。 朴慶植 は、外務省発表が史実に目を向けていないことに大きな憤りを感じて事実発掘の研究をはじめ、1965年『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発表した。この本は、強制連行という言葉が広がるきっかけになった。朴によれば、朝鮮人の強制連行は日本政府企画院が策定した「労務動員計画」に基づき実施された。朝鮮人に対しては1944年8月まで内地(日本)人と異なり国民徴用令は適用されなかったが、「企業による募集形式で強制連行された」と指摘している:50。鄭大均首都大学東京教授によれば、朴慶植によって初めて「強制連行」という言葉が日本軍による徴用に限定して使われた。『朝鮮人強制連行の記録』には付録として北朝鮮の平壌での「朝鮮民主法律家協会の声明」(1964年3月20日)が添付されている。 東京大学大学院准教授外村大は「在日コリアンの大部分が強制連行によって日本に来たとする主張は誤りである」が、この外務省発表には「労務動員の実態把握の誤謬がある」と批判している。外務省資料は、徴用(国民徴用令適用による徴用)以外の労務動員についてあたかも問題なしに進められ朝鮮人が望んで日本にやってきたかのように「『自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加』が約70万人」と記録しているが、1939年以降の徴用ではない「募集」「官斡旋」と呼んでいた制度も「自由契約」とは到底言えないケースが多数見られており、それは、朝鮮総督府の事務官が『大陸東洋経済』1943年12月1日号において「労働者の取りまとめは…半強制的にやっております」と述べている事からも確認できるのだという。外村は2010年の論文で「戦時期の動員計画に基づく日本の事業所への朝鮮人の配置は徴用によってのみ行われたわけではない。すでに述べたようにそれ以前の「募集」「官斡旋」によっても行われたのであり、それらの場合でも暴力性を伴う労働者の充足=強制連行と呼ぶにふさわしい実態があった。在日コリアンのルーツのどれだけが強制連行と関係しているのかを論じるのであれば、徴用によって日本に来た朝鮮人の外国人登録者の数字のみを挙げて云々するではなく少なくとも「募集」「官斡旋」によって日本に来た者でその後も居住している朝鮮人の数字を含めて考えなければならない」と主張している。さらに「外務省資料は「朝鮮人徴用労務者」の日本内地への「導入」が「1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運行が途絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間」としているが、これも間違いであり企業の文書や当時の新聞史料から1945年3月以降も徴用された朝鮮人の日本内地への送り出しが続けられていることが確認できる」としている。なお、外村は「強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」と主張している。
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