外務省職員時代
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1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』。成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した。1985年(昭和60年)の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している。 1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学する。100名中3名の合格であった。雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら根無し草になってしまうような気がして日本に帰りたかった」と語っている。東大在学中の学友には工藤雪枝などがいる。 駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる。合格者は28名でうち女性は3名であった。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。 1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された。この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。 1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学(在イギリス大使館付)。国際関係論(経済関係論)を専攻し学部長のアダム・ロバーツ教授の研究室で、日本の国防産業(軍需産業)や次期支援戦闘機選定問題(FS-X問題)についてよく語っていた。その頃より、皇太子妃候補と報道され、大学にまで日本からのマスコミが押しかける騒ぎとなっており、他の寮生に迷惑になるからと、ホリウェル・マナー寮にはほとんど滞在せずフランス・パリの両親宅(OECD大使邸)にいた。同年7月9日から11日に第16回先進国首脳会議(G7ヒューストンサミット)の半導体の市場開放問題担当海部俊樹の通訳の一人として恆とともに父子で米国に出張、日米外相会談にも出席した。この年の12月にはハワイでの日米経済問題会議にも出席した。また半導体問題、外国法事務弁護士問題に関してはエキスパートとして知られており、経団連に中谷巌、若杉敬明共に専門家として招かれ国際企業委員会の専門部会で発表する「対日直接投資の促進」などのレポートは省内だけでなくUSTR(米国通商代表部) でも高く評価されていた。 1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で「北米局北米二課」に配属された。経済局国際機関第二課配属・OECD(経済協力開発機構)の担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。配属の2日目は徹夜で業務をこなし、その後も徹夜は無いが週に3日は帰宅が午前様になるなど激務であった。当時の同僚海部優子によると、日米構造協議の最中は全員が何日も徹夜が続きスタッフが殺気立ってる中、雅子だけは常に笑顔で「タフな仕事をこなしているのにエレガント」だったと語っている。1991年(平成3年)3月には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍した。
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