外務省勤務
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1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年(明治8年)にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。翌年にエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った。この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた。1878年には、オランダ公使も兼任している。 1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任、1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている。1885年(明治18年)にオランダ、ノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった。1886年(明治19年)、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、1887年まで井上外交を支えた。 1887年(明治20年)5月9日、子爵を叙爵。1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した。
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