外務省勤務とは? わかりやすく解説

外務省勤務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 02:30 UTC 版)

青木周蔵」の記事における「外務省勤務」の解説

1873年明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官経て本省勤務したが、翌1874年明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツ赴任プロイセン貴族令嬢エリザベート知り合う1875年明治8年)にはオーストリア=ハンガリー帝国公使兼任した翌年エリザベート結婚決意し1877年明治10年)に外務省許可を得るものの、テルとの離婚青木家から承諾得られず、難航する。そのため、周テル新しい夫を見つけ、その結納金支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金払った。この結婚めぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられ難事乗りこえた。1878年には、オランダ公使兼任している。 1879年明治12年)、妊娠中のエリザベート連れて帰国して条約改正取調御用となったが、1880年井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリン赴任1882年明治15年)には伊藤博文ヨーロッパで憲法調査助けベルリン大学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学ロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授斡旋をおこなっている。1885年明治18年)にオランダノルウェー公使をも兼務したが、翌年外務大輔として帰国条約改正議会副委員長となった1886年明治19年)、第1次伊藤内閣外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状下付され条約改正会議出席するなど、1887年まで井上外交支えた1887年明治20年5月9日子爵叙爵1888年明治21年)の黒田内閣大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官務めた1889年には外務次官条約改正全権委員として条約改正交渉中心人物として活躍した

※この「外務省勤務」の解説は、「青木周蔵」の解説の一部です。
「外務省勤務」を含む「青木周蔵」の記事については、「青木周蔵」の概要を参照ください。

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