法学教授
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「エモリー・ウォシュバーン」の記事における「法学教授」の解説
翌年、ウォシュバーンはハーバード法学校の講師としての地位を提案され、それが1856年には常勤教授になった。その地位は以前ン位エドワード・G・ローリング判事が占めていたものであり、ローリングがバーンズの裁判でバーンズを奴隷に戻す判決を出した後は、ハーバードの監督委員会がローリングの再任を拒否していた。それからの20年間、ウォシュバーンはセオフィラス・パーソンズやジョエル・パーカーと共に、法学校の慣習やカリキュラムを形成するさいに影響を及ぼした3人の1人となった。法学の歴史家チャールズ・ウォーレンはこの3人について、「パーカーは偉大な弁護士だった。パーソンズは偉大な教師だった。ウォシュバーンは偉大な男性だった」と記した。この3人は法学校での平等でオープンな学習環境を構築した。ウォシュバーンはこのハーバードにいる間にかなり多くの法学に関する論文を執筆し、本を出版した。その論文「不動産のアメリカ法に関する論文」は、次の1世紀間、この主題に関するハーバードの考え方と教科書の基礎となった。その歴史と法学に関する関心は相互に絡み合っており、双方の主題に関わる多くの著作もある。 1860年、州の個人自由法の撤廃を要求する大衆行動にウォシュバーンも加わった。この法は1850年逃亡奴隷法をできるだけ難しく補強するために考えられたものであり、その敵対者からは奴隷所有者の利益に対する侮辱であり、北部と南部の間の緊張関係を高めるものと特徴づけていた。1861年に南北戦争が始まったとき、ウォシュバーンは北部からも南部からも学生を受け入れていた法学校内での調和を要求した。また、比較的高齢であったにも拘わらず、州の民兵隊に参加し、ものを書き、演説を行い、金を寄付することで戦争遂行を支持した。 ウォシュバーンは人気があり、熱心な教師だった。学生は彼が話すのを聞くためだけに授業に出席する場合もあり、また学術的なことも個人的なこともウォシュバーンは学生を進んで支援した。卒業生が専門職に進んでい行くときにも常にその支援を行っていた。 1870年、ハーバード法学校がその初代学部長とすべくクリストファー・ラングデルを雇用した。ラングデルは学内に大きな変化を起こさせる動きを始め、ウォシュバーンもその大半に合わせて行った。ウォシュバーンは1876年に教授を辞し、ケンブリッジで法律実務を始めた。アメリカ合衆国下院議員選挙に出馬するよう勧められたが辞退した。その代わり再度マサチューセッツ州下院議員選挙に出馬するよう説得され、当選した。ウォシュバーンは1877年3月18日、ケンブリッジで死に、マウントオーバーン墓地に埋葬された。
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