法学校と弁護士業務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 04:12 UTC 版)
「エドモンド・マローン」の記事における「法学校と弁護士業務」の解説
マローンは1763年1月にインナー・テンプルに入学したとされるものの、1763年5月10日に共同食堂でマローンが「ベンチテーブルに来るように誘われた」ということを除いて、彼の学習に関する記録は僅かしか残されていない。ピーター・マーティンは、マローンが誘われたことはギルドにおける同業組合になることにも匹敵すると描写している。学業以外で、マローンは政府と英語の濫用に関する風刺的な論説を出版し、また自分が所蔵している新版のジョナサン・スウィフトの往復書簡に修正を加えた。マローンはジェイムズ・ボズウェルと同じ年にインナー・テンプルに入学したが、2人が出会っていたことを示す証拠はない。 さらに重要なことに、この後、マローンの親しい友人トマス・サウスウェルと彼の父エドムンドは、インナー・テンプル通りにある家がマローンの住居と近かったサミュエル・ジョンソンにマローンのことを紹介した。マーティンはこれについて「マローンの生涯で最も重要な出会い」と書いている。マローンのジョンソンとの友情は1784年にジョンソンが亡くなるまで続いていた。マローンはジョンソンとの会話について書き記すことを怠たり、またジョン・チェトウッドの主題に関するマローンの手紙も見つかっていないのにも関わらず、1756年に開始されたジョンソンのシェイクスピア編纂がちょうどそのとき終わろうとしていたことから、マーティンは間違いなくシェイクスピアが彼らの話題になっていたと推測した。ジョンソンはイングランドとアイルランドの政治家ウィリアム・ジェラード・ハミルトンの個人秘書としての仕事をすぐに始めることから、彼らは法律についてとアイルランドについて共通の関心を見つけていたと推測される。ジョンソンはハミルトンのために穀物法の注釈を完成させた。この草案にハミルトンがアイルランド庶民院で行った2つのスピーチ、またそのほかの種々雑多な著述を合わせ、マローンは『議会の理論』という本を1809年に出版した。 1766年の秋、マローンが南フランスへ旅に出た際、サウスウェル一家は彼の同伴者であった。彼はアヴィニョンとマルセイユを訪れた。この旅の間、マローンは自らの法律家としてのキャリアに疑いを持つようになる。彼はインナー・テンプルを終えたものの未だアイルランドの弁護士業に関するさらなる勉強が必要とされており、彼のモチベーションは減少の一途をたどっていた。とりわけそのモチベーションの低下は、ロンドンとそこにある「コーヒーショップ、劇場、新聞、政治」を離れることを意味するからであった。この点においてマローンと父との間に緊張が生じており、彼の父は裁判官の地位をワージントン卿によって約束されていた。しかしながら、両問題は間もなく、マローンがマルセイユにいる間に父が民訴裁判所での裁判官の地位を継いだため解決された。サウスウェルの人々抜きで12月にロンドンに戻ってきた際、彼は法律家の仕事を続ける新たな決心を周知した。 彼が1767年にアイルランドの弁護士資格を得て、そして1769年まで「可もなく不可もない給与」でマンスターの巡回弁護士会で業務を行った。マローンはこの業務において大きな成功を収めることはできず、ロンドンを恋しく思った。1769年の上旬に彼はスザンナ・スペンサーと激しい恋愛関係を持ったが、結局実りはなかった。未詳の理由によって2人の関係が終了した際、そこには彼らの親族の身分に関係があったのだろう、とマーティンは推測している。マローンは兄とスパで良い夏を過ごしていた間、マローンの姉妹は手紙によって彼の沈んだ気持ちを軽減させ、彼を応援することを試みる内容を書いた。9月のあとしばらくしてからマローンは帰ってきたが、彼の憂鬱は消えなかった。彼は巡回弁護士会で働き、1772年3月以降のある時点でロンドンを訪れた。この訪問は怒りっぽい父親の提案だったかもしれない。どのくらい彼がロンドンに滞在していたのか、そこで何をしていたかについては分かっていない。マローンはアイルランドに帰り巡回弁護士の仕事を再開させたが、私的な手紙にはこの職業が退屈であるとの不満が綴られていた。
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