法学理解への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 09:56 UTC 版)
八木秀次は、「平和憲法/平和主義」「田中正明」「日本無罪論」など既存の論点で小林支持の主張を行い「ここで法実証主義ないし罪刑法定主義を持ち出してくるのは、後にも述べるように刑事上は無理でも道義的には日本を犯罪国家にしたいという「為にする議論」であるとの疑いすら浮上する」と西部・中島を批判。パールが実定法にこだわったのは、法実証主義とは関係なく、裁判官としての職業倫理に忠実であっただけであり、「パールが法実証主義者でないことは中島氏も『パール判事』や『問い直す』で明らかにしている」と、中島の説明では、パールは元々古代ヒンドゥー法の研究家で「パールにとって「法」とは、設計主義的に構築されるものではなく、歴史的に受け継がれた文明的英知であり、宗教的価値を内包させる存在論そのもの」で、八木はパールが歴史法学の系譜に連なる学者ではないかと推測。なぜ(中島は)それを法実証主義者として語っているのか理解に苦しむ、とした。 山崎充彦は、中島の法学理論への無理解と歪曲を批判した。 中島はケルゼンを法実証主義の代表者の如く取り上げているが、法実証主義はケルゼンの独創理論ではない。自然法論に対抗する法実証主義は、十九世紀ドイツのゲルバーやラーバントらによって体系化されドイツ第二帝制の存立とその法的安定性を保障する理論であった。純粋法学は、ビスマルク帝国の侍女と化した法学理論から政治性などを除去しようとする理論であって、法実証主義の系譜の中では、「特殊ケルゼン的法実証主義理論」とも言えるものであった。 中島は、ケルゼン理論は反保守思想的立場と批判するが、ケルゼン自身が「苟も政治的傾向であって、純粋法学がまだ嫌疑をかけられなかったものは一つもない。しかし、まさにそのことこそ、純粋法学が自ら為しうるよりもよりよく、その純粋性を証明する」と言う通り、イデオロギーによる批判こそケルゼンが最も問題にした点である。中島のケルゼン痛罵など、ケルゼン自身が『純粋法学』発表時点に当然に考慮していた点であり、所詮は、法(法律)観の相違でしかない。 中島の発言「保守派であるならば、道徳や慣習、伝統的価値、社会的通念は『法』と無関係であるという法実証主義をこそ批判しなければなりません。また、成文化された実定法を超えた道徳や倫理が世の中には存在するということを主張しなければなりません」であるが、我が国の判決文において、しばしば「社会通念上認められる」や「当然の法理」という文言が登場する通り、実定法解釈において「道徳や慣習、伝統的価値、社会的通念」は一定の意味を持っており、法実証主義がかかるものを全否定しているわけではない。また、この「道徳や慣習、伝統的価値、社会的通念」を法律と過度に接合し実定法の彼方に「成文化された実定法を超えた道徳や倫理」を置くことは、法的安定性を著しく害するのみならず、政治権力者の恣意的な法運用を招来し、たとえば北朝鮮憲法の「社会主義的生活規範」は(中島が言う)「成文化された実定法を超えた道徳や倫理」である、との主張も可能である。実定法秩序の上位存在に絶対的優位性を認めるのは「革命精神の前に法は沈黙す」との論と同義なのである。近代刑法では、この「実定法を超えた道徳や倫理」が暴走し罪刑法定主義の大原則を崩さぬように「犯罪構成要件の定型化・厳格化」や「刑法における類推解釈の禁止」などの法原則を掲げ実定法解釈の幅を可能な限り限定しようとし、刑法理論も行為無価値論から結果無価値論が主流である。 さらに、中島が言うところの「道徳や倫理」を「人道」「平和」と読み替えればそれは即、極東国際軍事裁判の訴因となり、つまり中島発言は論理構成上、極東国際軍事裁判の法的正当化理論である。
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