政界入りから首相就任まで
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「ジョージ・グレンヴィル」の記事における「政界入りから首相就任まで」の解説
1741年イギリス総選挙で父が議席を有したバッキンガム選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員となる。所属政党はホイッグ党だが、義弟(妹ヘスターの夫)大ピットとともに反ウォルポール派ホイッグとなり、ウォルポール内閣倒閣を目指した。処女演説は1742年1月21日に行われ、ウィリアム・パルトニーが提出した戦争遂行を調査する秘密委員会の設立動議に賛成するものだった。 ウォルポール失脚後の1743年から10数年にわたって海軍省や財務省の役職につくようになった。具体的には1744年から1747年まで下級海軍卿(Lord of Admiralty)を、1747年から1754年まで下級大蔵卿(Lord of Treasury)を務め、1754年から1756年にかけての初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの第一次内閣では海軍会計長官(英語版)を務めた。また、1754年6月21日には枢密顧問官に任命された。一時大ピットにしたがって辞職したが、大ピットも南部担当国務大臣として入閣した1757年から1762年にかけての第二次ニューカッスル公内閣では海軍会計長官に再任された。 しかしその後、大ピットと疎遠になり、1761年10月に大ピットが南部担当国務大臣を辞職して野党に転じた際にも彼は同道せず内閣に残留した。またこの際に大ピットに代わって庶民院院内総務を兼務した。 彼の政治的立場はますます不明瞭になり、1760年に即位した国王ジョージ3世やその寵臣第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートからはニューカッスル公や大ピットと距離を置いていることを評価されるようになった。 そのため1762年5月にニューカッスル公系ホイッグを排除して成立したビュート伯内閣にも留任することになり、はじめ北部担当国務大臣、ついで1762年から1763年にかけて海軍大臣(英語版)に就任した。しかし庶民院院内総務の地位はヘンリー・フォックスに譲ることになった。
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政界入りから首相就任まで
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「アレック・ダグラス=ヒューム」の記事における「政界入りから首相就任まで」の解説
1931年10月から1945年6月にかけてラナーク選挙区(英語版)から選出され、保守党の庶民院議員を務めた。1937年から1939年にかけてはネヴィル・チェンバレン首相の議会担当秘書官を務め、1938年9月のミュンヘン会議にも同行した。第二次世界大戦中は病により政治活動を避けたが、第1次チャーチル政権末期の1945年5月から7月までの短期間外務省政務次官(英語版)を務めている。チャーチル保守党政権が惨敗した1945年7月の総選挙で落選した。 1950年2月に実施された総選挙ではラナーク選挙区の議席を取り戻したが、翌1951年7月11日に父が死去したため、ヒューム伯爵以下4つの爵位を継承し、貴族院に移籍した。 1951年10月から1955年4月の第2次チャーチル内閣ではスコットランド担当省次官(英語版)を務めた。次いで1955年4月から1960年7月までイーデン内閣とマクミラン内閣でコモンウェルス担当大臣(英語版)を務めた。1956年7月に始まったスエズ戦争中に枢密院議長と貴族院院内総務を兼務した。1960年7月にはマクミラン内閣の外務大臣に就任した。 1963年1月にはプロヒューモ事件が発覚し、マクミラン政権の支持率が急降下した。同年10月に前立腺肥大で入院中のマクミランは病室から辞意を表明し、女王エリザベス2世がマクミランの病室を見舞って後任について意向を聴取したところ、マクミランはヒュームを指名した。当時ヒュームは「タカ派」とされること以外ほとんど無名な政治家だったので、これは多くの人にとって意外な人選だったが、エリザベス2世はマクミランの指名に従ってヒュームに組閣の大命を与えることとした。
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