ビュート伯内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 15:35 UTC 版)
「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の記事における「ビュート伯内閣」の解説
1762年5月末、第一大蔵卿(首相)に就任したビュート伯は、ジョージ3世の強い信任を背景に政権運営を行った。「愛国王」の理念に基づいて、年末までにはニューカッスル・ホイッグ系の政治家たちを官職から一掃し、万年野党だったトーリー党議員を積極的に閣僚に登用し、ウォルポール以来の「ホイッグ優越」時代を終わらせた。自らの考えに近い人物を置くという行動により、トーリー・ホイッグといった党派に留まらず、国王派・反国王派といった要素も加えられたため、議会は分裂状態に陥った。そのため、政府による議会のコントロールが利かなくなり、以降のイギリスの政界は政権交代が頻発することとなる。 このようにホイッグ排除には成功したものの、ビュート伯自身は極度に不人気であった。不人気の理由は、第一には若い国王に非立憲的な考えを吹聴していることであったが、彼がスコットランド人であることもあった。当時スコットランド人はユダヤ人並みに嫌われていた。とりわけ「ステュアート」という姓は、彼をジャコバイトやカトリック、フランスと結びつける悪宣伝に格好の材料だった。また世間の大ピットへの人気は依然として高く、ビュート伯は大ピットと対比されて低く評価されがちであった。大ピットに近いジョン・ウィルクス議員の週刊紙『ノース・ブリトン(英語版)』をはじめとする各新聞・雑誌からも、ビュート伯は批判の的になっていた。 また首相就任後、1762年の内にイングランド最高位のガーター勲章を授けられたため、引き換えにシッスル騎士団付勲爵士から退任した。この叙勲も批判にさらされ、風刺画ではジャコバイトを暗示する服装のビュート伯がスコットランドの民に金貨をばらまく姿が描かれて、悪意をもって受けとめられた。 年が明けた1763年2月にはパリ条約を締結して七年戦争を終結させた。イギリスが広大な植民地を得るという勝利の講和だったにもかかわらず、イギリス国内では「ビュートがフランスに過度に譲歩した。もっと有利な条件で講和できた」と批判された。そのため名誉回復の契機になるどころか、余計に嫌われる結果となった。 1763年3月のリンゴ酒消費税導入は、野党の激しい抵抗を抑えて議会を通過させることに成功したが、この件で不人気がさらに加速した。 あまりの不人気にビュート伯爵の内閣統制力も低下の一途をたどっていたので、人心を一新すべく1763年4月をもって辞職し、庶民院議員ジョージ・グレンヴィルを後任の第一大蔵卿とした。
※この「ビュート伯内閣」の解説は、「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の解説の一部です。
「ビュート伯内閣」を含む「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の記事については、「ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)」の概要を参照ください。
- ビュート伯内閣のページへのリンク