政界入りとソウル市長時代
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1992年、現代建設を退社して第14代総選挙で与党の民主自由党(民自党)から比例代表候補として出馬し、国会議員に当選する。選挙期間中に、「ミハイル・ゴルバチョフという一人の人間がもたらした世界的な変革を見て、私も何かしなければと考えました」と言及している。 1996年、第15代総選挙で新韓国党(民自党が1995年に党名改称した政党)からソウル特別市鍾路区選挙区に出馬し、統合民主党の盧武鉉候補を破って当選する。しかし、彼の選挙参謀による不明朗な選挙資金の処理が明らかになり、選挙法の違反で700万ウォンの罰金が科される前の1998年に議員を辞職して渡米し、ジョージ・ワシントン大学客員研究員として1年間を過ごした。大学で参加した演習で「環境」の重要性に気付き、知人に誘われて訪れたボストンでの都市再生工事(ビッグ・ディッグ)から、後の清渓川復元工事をはじめとする一連の都市プロジェクトのヒントを得たという。 帰国後一時は金融界への進出を試みるが恩赦により政界復帰が可能となり、2002年、ソウル市長選で当選する。しかし、選挙活動を早期に開始したことで罰金を科される。ソウル市長在任中はインフラ整備を大々的に進めた。ソウル中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除いて「清渓川」を復元し、市民の憩いの場だけでなく生態系の宝庫にした。「ソウルの森」は、ニューヨークのセントラルパークやロンドンのハイドパークのような市民の憩いの場を目指して1年間の工事の後2005年6月にオープンし、ソウル市民に40万本の木々や鹿を始めとする100種以上の動物が生息する広大な自然空間を提供している。ソウル市庁前のロータリーは2002年のサッカーW杯大会の際に文化空間「ソウルプラザ」として整備され、2004年5月のテープカット以来、市民の憩いや文化行事に参加する場として利用されている。 英経済専門誌フィナンシャルタイムズの姉妹誌「fDi」は、「2005年世界の人物大賞 (personality of the year)」に選定した。2005年11月8日、2007年大統領選で左派政権継続阻止を掲げている新保守運動のニューライト全国連合創立大会に参加している。2006年5月、タイム誌アジア版は「ソウル、かつてのコンクリートジャングルのシンボルは緑のオアシスにその姿を変貌させ、他のアジア都市に環境に対する愛情を教え込んでいる」と、清渓川に素足を入れた李の写真を添えて紹介した。2007年10月、タイム誌はアメリカのアル・ゴア元副大統領とともに「環境の英雄 (Hero of the Environment)」に選定した。
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