政界入り、与党幹部
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「李鍾賛 (1936年生)」の記事における「政界入り、与党幹部」の解説
中央情報部で企画調整室長の任についていた最中の1979年10月26日、朴正煕大統領が暗殺された(10・26事件)。この事件後、新軍部勢力のリーダーであった全斗煥将軍が1980年4月、中央情報部部長代理に就任した下で、指針通りに仕事を処理したことで能力を認められ、政界入りのきっかけを作った。そして、同年10月に発足した国家保衛立法会議の委員に任命され、中央情報部の企画調整室長として新軍部勢力の与党となる「民主正義党」(民正党)の創党作業にかかわった。翌1981年3月の11代国会議員選挙でソウル特別市鍾路区・中区選挙区から出馬して初当選し、政界入りした。当選後、国家運営委員長と民正党初代院内総務の職に就いた。 民正党内で穏健派に位置していた李鍾賛は、1985年2月の12代国会議員選挙後、全斗煥政権が制定しようとしていた学園安定法案(学生運動の封じ込めを目的とした法案で日本における大学管理法に相当)に反対の姿勢を示した。同年8月に院内総務の職を退いた後は、党内外における基盤を固めると共に、在野人士や反政府知識人と交流するなど穏健改革派として活躍した。民主化実現後に行われた1988年4月の第13代国会議員選挙に鍾路区選挙区で3選を果たし、選挙後の5月に政務第1長官に、12月に民正党の事務総長に任命された。その後、民正・民主・共和の3党が合同して結成された民主自由党(民自党)に入党し、1992年3月の14代国会議員選挙で当選した。
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