政界一時引退時期
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「プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事における「政界一時引退時期」の解説
1943年8月17日、新首相クアン・アパイウォンはロッブリーでピブーンソンクラームと会談した。これはピブーンソンクラームが元帥に就任したままになれば、敗戦時に連合国側から責任を問われるのをクアンが恐れたため、何らかの形でピブーンソンクラームが軍事方面から身を退く必要があることを伝えるためである。その一方でクアンはピブーンソンクラーム首相就任時代の反対派一層作戦の二の舞になるのを恐れていた。会談の結果は、ピブーンソンクラームは頑なに元帥の地位から降りることを拒否したのみであった。のち、8月25日、クアンは強制的にピブーンソンクラームを元帥から罷免したうえで(罷免されても元帥の称号は残る)、ある程度の譲歩を見せピブーンソンクラームを国家最高顧問の座につけた。 その後ピブーンソンクラームはパトゥムターニーに身をひそめていたが、後に終戦を迎えて自由タイが政権の座につくと、9月13日に首相のタウィー・ブンヤケート(英語版)(任期:1945年8月31日 - 9月17日)によって最高顧問を解任された。セーニー・プラーモート(任期:1945年9月17日 – 1946年1月13日)首相が就任すると、10月10日に戦争犯罪人法が成立し、投獄された。翌1946年1月31日クアン・アパイウォンが首相に復帰したが直後の3月に辞任し、自由タイ系の政治家が短期間の間に入れ替わり、政府は非常に不安定な状態が続いた。 プリーディー・パノムヨン(任期:1946年3月24日 – 1946年8月23日)は混乱しきった政局を収集するために尽力し、4月には戦争犯罪人法が無効であるという判決が最高裁でなされ、ピブーンソンクラームは無罪放免で釈放の運びとなった。 1946年5月にフランス軍がタイ領を攻撃した。国際社会への復帰を優先せざるを得ないプリーディー政権は領土の引き渡しに応じ、ナコーン・チャンパーサック県(タイ語版)、ピブーンソンクラーム県(英語版)、プレアタボン県(英語版)の3県(旧仏印のチャンパーサック県・バタンバン州・シェムリアップ州)はフランスに返還された。 1946年6月9日にアーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)が多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。
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