政界への転身
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2007年7月に第21回参議院議員通常選挙へ自由民主党から比例区で立候補し、385,909票を獲得して党内得票数第3位で初当選した。同年8月27日に発足した第1次安倍改造内閣で留任、同年9月7日に拉致問題対策本部事務局長職を離任した。同年9月26日に発足した福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。11月15日、町村派に入会。 2008年8月2日に発足した福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画担当)として初入閣を果たした。内閣府特命担当大臣のほかにも特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令されており、国務大臣として同時に兼任した。しかしおよそ1ヶ月後の内閣総辞職に伴い内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画担当)および拉致問題担当、公文書管理担当を退任。 同年9月24日に発足した麻生内閣では中山の入閣は見送られ、拉致問題担当の特命事項は内閣官房長官の河村建夫が兼任することになった。拉致問題担当のポストに中山を任命しなかったことに対して内閣総理大臣官邸に批判が殺到したため、中山は内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。 2010年6月18日、夫・成彬が同年7月の第22回参議院議員通常選挙にたちあがれ日本から出馬することが確実になったことを受け、「夫を支援するため」として、自民党に離党届を提出し、6月21日、夫と共にたちあがれ日本へ入党した。 2012年11月、たちあがれ日本が太陽の党と改称し、さらに日本維新の会へ合流したことに伴い同党の所属となった。 2013年7月に第23回参議院議員通常選挙へ比例区で立候補し、306,341票を獲得して党内得票数第2位で2回目の当選。 2014年8月の日本維新の会分党に伴い「次世代の党」に参加。党参議院会長、同党規委員長に就任した。12月に財務局長に就任。 2015年10月1日に次世代の党代表に就任。12月21日、党名を「日本のこころを大切にする党」と改称。2017年2月7日、日本のこころに党名を変更した。 2016年9月、党代表のまま党政策調査会長を兼任 2017年9月、無投票で党代表に再選。同月24日、夫と共に希望の党へ参加する意向を示し、翌25日、日本のこころに離党届を提出し受理された。同月27日、小池百合子東京都知事を代表とする新党「希望の党」設立会見に、結党メンバーとなる国会議員14人の一人として参加した。2018年5月、希望の党分党に伴い新たに発足した希望の党の顧問に就任。 2019年4月8日、第25回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界を引退すると自身のフェイスブックページで表明。5月28日、党選挙対策委員長に就任。同年、旭日重光章受章。
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政界への転身
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1983年から1987年にかけてネブラスカ州ランカスター郡委員・1989年から1991年までリンカーン市議会議員を務め、1991年にリンカーン市長に就任する。1995年に再選し、政治的基盤を強化する。 1998年にネブラスカ州知事選挙に共和党から立候補し、民主党の対立候補を破り当選した。2002年に再選し、知事時代には州の農業を重視する政策を実行している。 2004年12月2日にジョージ・W・ブッシュ大統領によってアン・ヴェネマン農務長官の後任として指名される。その結果2006年にジョハンズの対抗馬として立候補を予定していた民主党のベン・ネルソン(英語版)上院議員の計画を潰すこととなった。 2005年1月21日にジョージ・W・ブッシュ政権2期目が発足し、正式に28代目アメリカ合衆国農務長官に宣誓就任すると同時にネブラスカ州知事を辞任した。農務長官としては日本に対してアメリカ産牛肉の輸入再開を度々強硬に迫った。2007年9月20日には農務長官を辞職し、次回の上院選挙へのネブラスカ州からの出馬を表明した。2008年11月4日に行われた選挙ではネブラスカ州知事とアメリカ合衆国農務長官としての実績を背景に支持を集めて当選し、2014年の選挙には出馬しなかった。 ランカスター郡元委員長でネブラスカ州議会議員のステファニー夫人との間に2人の子供がいる。
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