新制への移行とは? わかりやすく解説

新制への移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 01:31 UTC 版)

山口高等商業学校」の記事における「新制への移行」の解説

1945年敗戦以後占領軍による非軍事化動き山口経専再建にも影を落とした東亜経済研究所1946年占領軍により蔵書接収され閉鎖追いこまれ、同所機関誌となっていた『東亞經濟研究』も刊行中断1949年には東亜経済研究科廃止された。 以上のような動きの中で、山口経専県下の他の高等教育機関とともに新制国立総合大学への移行をめざすこととなり、1949年6月山口大学発足にともない設置され経済学部構成母体となり、同時に同大学に包括されて「山口大学山口経済専門学校」と改称した1951年3月には最後卒業式経て廃校となり、山口大への移行完了した山口高商商学会の機関誌であった山口商學雑誌』は、その後誌名山口経済学雑誌』への改称経て山口大経学部刊行継承された。また戦後一時廃止よぎなくされた東亜経済研究所は、1949年経済学部資料室」として復活しその後1957年旧名復活同年機関誌である『東亞經濟研究』も復刊果たし、ともに現在に至っている。

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新制への移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:22 UTC 版)

小樽高等商業学校」の記事における「新制への移行」の解説

戦後になり学園民主化進行すると、苫米地校長専制的な運営対し長年蓄積していた教員・生徒の不満が噴出した苫米地政界への転身理由1946年3月校長辞任したため、小樽経専における戦後体制への移行は第4代校長大野純一によって進められた。同年創立35周年機に商科大学への昇格運動が再び盛り上がり教職員同窓会小樽市が一体となって運動進められた。経専については北海道大学戦後北海道帝国大学改称)の経済学部母体として包括する案もあったが、昇格運動の結果GHQは「国立大学は一県一大学」原則例外認めて道内には北大加えて新制小樽商科大学2つ国立大学設置されることとなった。これにより小樽経専は、官立経専において唯一単独大学昇格することに成功し1949年5月小樽商大発足伴って同大学に包括1951年3月最後卒業式挙行廃校となった戦時期の1944年9月北方経済研究所北海道経済研究所経専への改組同時に改称)の機関誌として『商学討究』から『北方経済研究』へと改題していた経専紀要誌は、戦後1946年6月、『社会経済研究』に再び改題され、新制移行後の1950年12月に『商学討究』の旧題に復し小樽商大研究紀要誌として現在に至っている。

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新制への移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:02 UTC 版)

武蔵高等学校 (旧制)」の記事における「新制への移行」の解説

第二次世界大戦後混乱の中、米軍中心とする連合国軍占領下学制改革方針において旧制高等学校存続危うくなっていることが判明すると、1946年5代校長就任した宮本和吉は、根津育英会顧問となった天野貞祐旧制一高校長)・安倍能成学習院院長)・和辻哲郎と共に1948年東京連合大学共立する構想明らかにした。これは、同じ私立旧制高等学校であった成蹊成城・学習院と共に4校で緩やかなカレッジ連合形成するというものであったが、4校の間で調整進まず結局実現はみなかった。 「連合大学構想挫折した結果、武高は単独新制学校移行することを強いられることとなり、教授会は、成蹊成城同様に新制中学・高校・大学移行し大学文理学部を設置する」という案を出したが、宮島清次郎中心とする理事会新制大学設立反対、あるいは消極態度をとり、「新制高校中学への移行」を主張した議論二転三転し、結局父兄会支持もあって「新制大学高校中学への移行」を追求することとなったが、この際教授会理事会意向考慮して大学について文理学ではなく経済学部設立目指すこととなり、1949年4月には経済学部経済学科のみからなる新制武蔵大学発足した。そして翌1950年3月22期生の卒業式をもって旧制武蔵高校開校以来28年わたって2000名余の生徒送り出した歴史終止符打った新制移行後、先述のような事情もあって、旧制武蔵高校教員多くは、他の旧制高校のように新制大学ではなく新制武蔵中学校・高等学校教鞭を執ることとなった。また同窓会新制武蔵高校継承されたため、旧制武蔵高校継承する機関は、一般に武蔵大学ではなく新制武蔵高等学校(および中学校)であるとみなされている。旧制武高の理念として掲げられた「三理念」は新制武蔵大学高校中学校継承されまた、戦時期中断していた山上学校海浜学校戦後武蔵高等学校・中学校において再開され、現在も重要な行事として続けられるなど旧制高校以来教育引き継がれている(また旧制高が開校した日付である4月17日は、新制武蔵高・中創立記念日とされている)。さらに、頓挫したものの戦後連合大学構想によって連携関係が生じた成城成蹊学習院の3大学との間で、1950年以来、「四大学運動競技大会」が開催されるようになり、現在に至っている。

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新制への移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:55 UTC 版)

名古屋高等商業学校」の記事における「新制への移行」の解説

敗戦後名経専では戦時体制からの離脱とともに学制改革による新制大学昇格への動き本格化した。1946年には修業年限3年へと復活し、また戦時体制象徴であった名古屋経専廃止され、工経専生徒名経専本科分割して設置した経済科・経営科のうち後者編入されることとなった敗戦の年の1945年末に開催され学生大会では「大学昇格」が決議され、これをきっかけ生徒教職員・其湛会などが一体となって名古屋経営大学」への昇格運動本格化した。名経専では当初渡邊初代校長以来の「総合大学匹敵する」との自負から、単独での大学昇格めざした。 しかし一方で理系学部主体の(旧制名古屋大学文系学部完備した新制総合大学への移行をめざし、名高商統合して経済学部母体とする構想進めていたため、最終的に名経専新制名古屋大学への参加をめざす途を選択した1949年5月新制名古屋大学発足にともない同大学に包括され名経専は、新たに設置され法経学部経済学科経営学科構成母体となり、翌1950年には2学科分離して名古屋大学経済学部新設された。1951年3月名経専最後卒業式挙行廃校となった名経専の「産業調査室」は敗戦後一時中断経て1950年名大経済学部施設として復活1953年には経済調査室改組されて現在の名大大学院経済学研究科附属国際経済動態研究センター」に継承されている。また、同窓会である其湛会は1953年社団法人化され1969年には名大経済学部同窓会一本化されて「其湛啓友会」となり、その後キタン会」と改称されて現在に至っている。

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