校地とその継承
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設立から小樽商大へ移行して現在に至るまで小樽市緑の校地(設立時点では市制が施行されておらず小樽区)が維持されている。緑校地は高商生から「緑丘」(りょくきゅう)の愛称で呼ばれ、同窓会である緑丘会の名称の由来ともなった。
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校地とその継承
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「武蔵高等学校 (旧制)」の記事における「校地とその継承」の解説
設立時の校地は東京府北豊島郡中新井村大字中新井字北新井(現在の東京都練馬区豊玉上1-26-1)に所在し、根津育英会によって購入されたものである(江古田校地)。敷地内には江戸時代から流れる千川上水から分流し中新井川に合流する中新井分水が流れていた。この校地は廃止まで存続した。 1922年の開校時に本校舎はまだ建設されておらず、同年、尋常科寄宿舎「慎独寮」が開設され、翌1923年に本館(本校舎 / 1925年増築)、1925年4月に運動場が一応の完成を見た。ついで1927年5月には高等科寄宿舎の双桂・愛日の2寮、同年6月から10月にかけて剣道場・化学教育棟・生徒集会所、翌1928年4月の開校式までに講堂(佐藤功一の設計による)・屋内運動場が竣工・落成するなど、次第に施設が整備された。その後も1928年12月に弓道場、1931年9月に父兄会の寄贈によるプールが竣工・落成した。 校外施設としては、1928年7月、千葉県興津町字鵜原に「夏期海浜学校」のための施設として「鵜原寮」、1937年7月には「山上学校」のための施設として長野県軽井沢町矢ヶ崎に「青山寮」が落成した。1940年4月には皇紀2600年記念による「学校山林」が埼玉県毛呂山町に造営された。 第二次世界大戦中の戦災被害としては、1945年4月13日空襲により、慎独寮・錬心館・弓道場・木工金工室・不退堂など校地東側の木造施設等約800坪を焼失している。現在、跡地には「慎独寮・積翠園記念標」「錬心館跡の碑」がそれぞれ設置されている。 新制移行後、武高校地は武蔵大学・武蔵高等学校・中学校の江古田キャンパス・校地として継承されており、本館(本校舎)・講堂は、現在もそれぞれ武蔵大学3号館および大講堂として使用されている。また石造の正門門柱も旧制武高以来のもので1920年代の建設である。戦災を免れた高等科寄宿舎の双桂寮・愛日寮は新制武蔵中学校・高等学校の寮として使用されたが、1968年閉鎖され解体、1970年、2寮の跡地に同校の体育館・プールが建設された。校外施設である鵜原寮・青山寮もまた戦後の中学校・高等学校で復活した海浜学校・山上学校のための施設として引き継がれ、長期間使用されたが、青山寮は1980年4月、赤城山大沼湖畔の赤城青山寮の落成をもって廃止され、鵜原寮は1988年6月に改築された。 なお、校地を横断して流れる中新井分水は、開校後、運動場の整備に際して拡幅され、7つの橋が架けられた。1925年、川は屈原「漁夫辞」に因んで「濯川」(すすぎがわ)と命名され、さらに1932年、創立10周年を記念して7橋に命名がなされ(玉の橋・欅橋・一の橋・入橋・出橋・十年橋・佐の橋)、各橋の近くに石碑が建立された。新制移行後の1970年代には千川上水との連絡が絶たれたことから水がよどみ汚染が進んだが、1986年に完成した蘇生工事により水の流れが復活し、現在に至っている。
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校地とその継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:41 UTC 版)
設立時の校地は長崎県西彼杵郡上長崎村字片渕郷(現在の長崎市片淵町)。1903年(明治36年)の官制公布後、この地に1万2,912坪の敷地が求められ、工費36万8,800円で同年4月に着工、1905年(明治38年)1月に校舎が完成した。 その後片淵校舎の所在する上長崎村は、1920年10月に長崎市に編入され住居表示が変更されたが、第二次世界大戦後の学制改革を経て長崎大学経済学部キャンパス(片淵キャンパス)として継承された。新制移行後の1964年、長崎大の本部キャンパス(文教キャンパス)に所在していた工学部との校地交換が画策された際、経済学部は一致してこの計画に反対したため校地移転は実現せず、現在に至るまで経済学部キャンパスとして利用されている。 高商・経専時代の施設のなかにはいくつか現存・現役使用されているものがあり、高商の「研究館」(1919年造)は、現在は同窓会事務所「瓊林会館」として内部の調度も含め旧観を保っている。また高商正門と校舎の間に流れる西山川(中島川の支流)に架けられた「拱橋」(こまねきばし / 1903年造)が現役で使用されており、高商時代の煉瓦造り倉庫(1907年造)も現存する。また旧制時代の「表門衛所」もグラバー園に移築され現存している(ギャラリー参照)。 旧長崎高商表門衛所 拱橋(こまねきばし) 高商時代の倉庫
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校地とその継承
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「成城高等学校 (旧制)」の記事における「校地とその継承」の解説
成城第二中学は1922年4月の開校時、東京市牛込区(現・東京都新宿区)原町の成城中学校校地内に併設されていたが、1925年には東京府下北多摩郡砧村喜多見(現・世田谷区成城)に移転、翌年開校した成城高校もこの喜多見校地に設置された。喜多見校地は新制への移行を経て現在の成城大学(および成城幼稚園、成城学園初等学校・中学校・高等学校)の校地として継承され、現在では「成城キャンパス」と呼ばれている。
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校地とその継承
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「甲南高等学校 (旧制)」の記事における「校地とその継承」の解説
1919年の旧制甲南中学設立時の校地は、当時は一面の農地が広がっていた兵庫県武庫郡本山村大字岡本の二楽荘山麓の地(現在の神戸市東灘区岡本8-9-1)である。近隣に所在する二楽荘は、かつての大谷光瑞の別荘で彼が失脚したのち甲南学園の支援者・久原房之助の手に渡り、中学設立時には新校舎などの施設が整備されるまでの間、二楽荘内にあった大谷の私塾・武庫中学の講堂などが流用された。翌1919年には校地の南に阪神急行神戸線が開通し、最寄り駅として岡本駅が開業した。中学開校の4年後1923年に開校した甲南高校は同校の校地をそのまま継承し、同年、高等学校校舎としては全国初の鉄筋コンクリート造による本館が建造された。岡本校地は1937年に拡張がなされ、1938年の阪神大水害で大きな被害を受けながらも新制移行まで維持された。 岡本校地は新制移行により発足した甲南大学および甲南中学校・高等学校の校地として継承されたが、校地が狭小となったため、1963年、中学校・高等学校の校地は芦屋市に移転、現在は甲南大学岡本キャンパスとして維持されている。岡本キャンパスは1995年の阪神・淡路大震災により大きな被害を受けたが、この時、新制移行後の甲南大学1号館として使用されていた旧制高校時代の「本館」も、被害を受けて解体され、1997年に旧本館の外観を模した「新1号館」が再建された。また、その前年の1996年には開校77年を記念する「旧制甲南大会」が岡本キャンパスで開催され、同キャンパス内に「「旧制甲南生」此の地から巣立つ」と題された碑が建立された。
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