校地「喜応寺ヶ丘」について
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「長崎県立壱岐高等学校」の記事における「校地「喜応寺ヶ丘」について」の解説
壱岐高等学校の所在する地域は「喜応寺ヶ丘」(きおうじがおか)と呼ばれている。校歌の中にも「喜応台上」が登場する。これは以前この地に存在した喜応寺という名の寺に由来する。喜応寺は元・肥前唐津城主・波多氏の家老の「日高甲斐守源喜」の霊を弔うために創立された。日高甲斐守は1564年(永禄7年)に波多氏の相続・お家騒動のため唐津を追われ壱岐に逃れ、松浦氏と連携し、壱岐城代となった。1592年(文禄元年)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、翌年朝鮮で戦死した。法名を「喚心喜翁居士」といい、寺は当初「喜翁寺」と名付けられた。それが後に「喜応寺」となった。 校地一帯は喜応寺の寺山・墓地の跡で、本堂と庫裡は現在の体育館の場所に、山門は現在の裏門の位置にあったとされる。当時の参道・石垣がそのまま裏門と郷ノ浦町下ル町商店街を結ぶ通学路として残っている。
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