長崎県立壱岐高等学校
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長崎県立壱岐高等学校(ながさきけんりつ いきこうとうがっこう, Nagasaki Prefectural Iki High School)は、長崎県壱岐市郷ノ浦町片原触にある県立高等学校。略称「壱岐高」(いきこう)。
- ^ かつて壱岐分校として属していた長崎県中学猶興館(現・長崎県立猶興館高等学校)の校章も雪の結晶をモチーフにしている。
- ^ 1945年(昭和20年)4月旧制中学入学生。
- ^ 「よしだくにはる」数多くの学校の校歌を作詞している。当時、壱岐高校国語教諭。後に岡山県で教諭をつとめた。
- ^ 長崎県立壱岐商業高等学校、壱岐市立石田中学校、壱岐市立石田小学校、壱岐市立筒城小学校、壱岐市立初山小学校、壱岐市立箱崎中学校の校歌も作詞している。
- ^ 「やまぐちつねみつ」1894年(明治27年)生~1977年(昭和52年)没の吹奏楽指揮者・作曲家。壱岐島に生まれ、1912年(大正元年)陸軍戸山学校軍楽科に入学して軍楽隊生活に入り、1920年(大正9年)東京外国語学校(現 東京外国語大学)仏語科卒業。1930年(昭和5年)からフランス、ドイツに留学し、1942年(昭和17年)戸山学校軍楽隊長、翌年(昭和18年)軍楽少佐となる。戦後は皇宮秦楽隊長、警視庁音楽隊長を歴任。1960年(昭和35年)相愛大学女子大学(現相愛大学)教授。著書に「陸軍軍楽隊史」「吹奏楽教本」などがある。出身地の壱岐市勝本町湯本に銅像(胸像)がある。壱岐商業高等学校や壱岐市立霞翠小学校、壱岐市立鯨伏小学校の校歌の作曲も行っている。
- ^ a b 壱岐高東京同窓会のウェブサイトで歌詞を閲覧できる。
- ^ 壱岐高東京同窓会
- ^ a b 「厳原町誌」(1997年(平成9年)3月31日発行, 厳原町)p.1007 第三編 歴史 第四章 近・現代(三)中等教育の動き
- ^ 壱岐の歴史情報 1800年代 壱岐市立一支国博物館ウェブサイト
- ^ この時、文部省令によって大村・諫早・島原・福江(五島)・厳原(対馬)の中学校も廃止された。
- ^ 武生水村・柳田村・沼津村・志原村・渡良村・初山村
- ^ 武生水高等小学校とほぼ同時期に、那賀村に「国府高等小学校」、香椎村に「香椎高等小学校」、石田村に「石田高等小学校」が設置された。
- ^ 盈科尋常高等小学校、柳田尋常高等小学校、沼津尋常高等小学校、志原尋常高等小学校、渡良尋常高等小学校、初山尋常高等小学校
- ^ 壱岐市立那賀小学校を参照。
- ^ a b この年に入学する予定であった国民学校 初等科(6年間)を卒業した児童は新制の中学校(現在の中学校)に通うこととなった。
- ^ この時、長崎軍政府教育官のニブロの政策によって、長崎県内の普通科高等学校が男女共学となった。
- ^ 1946年(昭和21年)4月の旧制中学校・高等女学校入学生。
- ^ 1928年(昭和3年)4月、芦辺尋常小学校(芦辺小学校の前身)併置芦辺実業補習学校(後に芦辺青年学校)の中に特設された被服中心の2ヶ年課程女子研究科を前身とする。1956年(昭和31年)3月に田河分校は廃止されたが、その直後(同年4月)跡地に芦辺町立芦辺高等文化学院が開校した。対象を中卒以上の女子(年齢制限なし)とし、修業年限を本科1年、研究科1年とした。被服(和洋裁)、手芸、食物、華道、書道、珠算、簿記等を主な教育内容とした。芦辺高等文化学院は1973年(昭和48年)3月に閉校した。(「芦辺町史」(1978年(昭和53年)発行、芦辺町史編集委員会)より)
- ^ 土俵開きには出羽海部屋より、常錦・義ノ花などの力士が来校した。
- ^ 県内離島でセンター試験 長崎新聞ウェブサイト
- ^ 以前は船で福岡市に渡り、宿泊の上受験していた。
- ^ 禅語の「啐啄同時」という言葉に由来している。「啐」は鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついてたてる音を表す。「啄」は、その音に対して、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破ることを意味する。「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれるというのが「啐啄同時」の意味である。師匠と弟子、教師と生徒、親と子の関係がこれによくたとえられている。
- ^ 雪州の由来 - 東京雪州会ウェブサイト
- 1 長崎県立壱岐高等学校とは
- 2 長崎県立壱岐高等学校の概要
- 3 学校行事
- 4 著名な出身者
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