原の辻遺跡とは? わかりやすく解説

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原の辻遺跡

名称: 原の辻遺跡
ふりがな はるのつじいせき
種別 特別史跡
種別2:
都道府県 長崎県
市区町村 壱岐市芦辺町石田町
管理団体
指定年月日 1997.09.02(平成9.09.02)
指定基準 史1
特別指定年月日 平成12.11.24
追加指定年月日 平成21.02.12
解説文: 原の辻遺跡は,長崎県北方に浮かぶ壱岐島南東部台地から平野部広がる弥生時代中期から後期にかけての大規模集落跡である。遺跡大正時代から注目され戦前終戦直後発掘調査経て昭和50年以降長崎県芦辺町石田町の各教育委員会による継続的な調査おこなわれている。
 その結果,3重の環濠囲まれ集落域の規模は24haに達しその周辺遺構含めると,遺跡としての広がりは約100haに及ぶことが判明した環濠内部では掘立柱建物跡集中する祭場一部多数竪穴住居跡からなる居住域確認され環濠内外では墓域も見つかっている。遺物としては土器石器のみならず青銅器鉄器木器骨角器等が多量に,しかも良好な状況出土したとりわけ大陸集団との交渉裏づける土器青銅器鉄器等が数多く認められたことは大きな特徴である。
 そして,『魏志倭人伝』に記載された「一支国」の中心集落様相が明らかとなり,弥生時代対外交渉解明する上で重要であることから,平成9年9月史跡指定された。
 その後の調査では,3重の環濠の他にも溝が発見され多重環濠になることが判明したまた,環濠の外からは船着き場跡や道路状遺構さらには水田跡等も検出され環濠周辺様相も明らかとなっている。また,床大引材と呼ばれる建築部材確認されこれまでにない構造高床倉庫存在推測されることとなった。さらに、これまで出土していた貨泉加え五銖銭大泉五十等といった銭貨出土し,これらを含めた多量大陸遺物は,他の大規模集落のそれを圧倒している。九州北部瀬戸内地域等の土器出土していることからすると,本遺跡大陸文物をめぐる流通拠点であったことを強く示唆している。
 原の辻遺跡は弥生時代環濠集落としては最大級規模有し検出され遺構・遺物により,集落構造当時暮らしぶりさらには大陸との交渉窓口という性格などが明らかとなった中国史書記されクニ中心集落実態明らかになったという点では希有の例である。こうした成果考古学のみならず古代史東アジア史建築史など広い分野わたって豊富な資料提供しており,学術的価値きわめて高い。よって特別史跡指定しようとするのである
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原の辻遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 18:01 UTC 版)

原の辻遺跡
原の辻遺跡中心域 遠景
種類環濠集落弥生時代前期から古墳時代初期)
所在地長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、石田町石田西触

座標: 北緯33度45分34.0秒 東経129度45分11.6秒 / 北緯33.759444度 東経129.753222度 / 33.759444; 129.753222

原の辻遺跡
原の辻遺跡

原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、石田町石田西触にある遺跡。国の特別史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

概要

壱岐島東部・幡鉾川下流にある、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡である。『魏志倭人伝』に登場する「一大国」の国都とされている。一大国は一支国の誤記とされるが、誤記ではないとする説も存在する。

発掘調査

最初の遺跡発掘は1923年大正12年)から1926年(大正15年)にかけて、地元の石田尋常高等小学校教諭・松本友雄による小規模なものであった。彼はこの時、弥生土器や石器類を発掘している。

戦後の発掘調査

第二次大戦後の1951年昭和26年)より1961年(昭和36年)の10年間に九学会連合東亜考古学会により4回にわたる発掘調査が行われた。この結果、居跡や墓地が発掘され、貨泉や大量の鉄器等が出土した。

平成期の大規模発掘調査

以後も長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所を中心に調査が継続され、また、現在も調査は継続されている。1993年平成5年)の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出された。また、壕の外西北では日本最古の船着き場の跡も発掘された。原の辻の中心部分に当たる。 環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートルである。この東側に『魏志倭人伝』に見える卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される。壕の外の北、東、東南には墓地が見つかっている。また、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである[1]。また、集落域は約24haであった[2]

これらの発掘調査結果から1995年(平成7年)に一支国の国都である可能性を指摘した[3]

また、弥生時代中期の竪穴建物址から炭化したが出土している。島の河川流域の低地に水田が広がり、水稲農耕が行われていた。対馬に比較して水稲農耕が広く行われていた。島には貝塚もあり、狩猟獣であるシカイノシシのほか、家畜であるウマをはじめ獣骨や魚骨が出土している。

石器では石斧・片刃石斧・石包丁に一部鉄器を交えるが、後期になると石器はほとんど姿を消し、手斧・鎌・刀子など鉄器が豊富になる。なかには鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出した。壱岐島の鉄器は舶載品であると考えられている。

遠景
壱岐市立一支国博物館より望む)

史跡・特別史跡へ

遺跡は1997年(平成9年)に国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月24日には特別史跡となった。史跡公園が計画されているが、遺跡全体の公有化が進んでおらず現在既に発掘された場所は一旦埋め戻されたが、原の辻一支国王都復元公園として再整備されている[4]。公園内には、弥生時代後期の同時期に併存したと目される竪穴建物高床建物平地建物壁建ち建物)などの建物17棟が復元されている[5]

出土品は壱岐市芦辺町深江鶴亀触にある「壱岐・原の辻展示館」に収蔵されていたが同館は2009年(平成21年)8月31日で閉館され、遺跡の北方に新しく建設された壱岐市立一支国博物館2010年(平成22年)3月14日開館)に改めて収蔵されている。なお、原の辻ガイダンスには、発掘の歴史や調査の様子が展示されており、さらに勾玉づくりなどの体験、壱岐神楽の見学もできるように整備されている。

ギャラリー

脚注

  1. ^ 下田章吾 編著「原の辻遺跡6」『長崎県芦辺町文化財報告書』6、芦辺町教育委員会、1993年。
  2. ^ 黒田日出男監修、帝国書院編集部編『図説 日本史通覧』帝国書院、2014年、36ページ
  3. ^ 副島和明・山下英明他 「原の辻遺跡」『長崎県文化財調査報告』124、長崎県教育委員会、1995年。
  4. ^ NPO法人一支國研究会. “原の辻一支国王都復元公園”. 2023年10月1日閲覧。
  5. ^ 長崎県埋蔵文化財センター 2016, pp. 205–216.

参考文献

外部リンク




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