墓域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 14:25 UTC 版)
ムラの東側、木柵に接して径40mほどの範囲に墓域が設定されている。墓は北東群と南東群に分かれ、とくに南東群に密集する。墓には土器棺墓25基、土坑墓51基がある。 土器棺墓には 壺形土器を棺とし蓋形土器で覆うもの 壺形土器棺を鉢形土器で覆うもの 壺形土器棺を甕形土器で覆うもの 壺形土器棺を扁平な自然石で蓋をするもの 2個の甕形土器の口を合わせるもの の5つのタイプがある。棺の直径および高さは30cm-50cmである。棺内からは人骨や副葬品などは出土していないが、子どもの墓と考えられている。 土坑墓は、成人の墓と考えられ、楕円形、長方形、隅丸長方形を呈するものがあり、楕円形のものが多数を占めるが不整形のものもある。規模は、長軸の長さが約1mから2mにおよび、1.5m未満のものが多い。人骨の出土はなかったが、224号土坑墓から凝灰岩製の小玉が、258号土坑墓から碧玉製の玉、凝灰岩製の管玉、玉髄製の勾玉が、227号土坑墓からはベンガラがそれぞれ出土している。
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墓域(奥之院参道)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:06 UTC 版)
奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の山岳信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「中右記」で、天任元年(1108年)堀河院が奥之院に法華経とともに納髪したとある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、石塔群が形成されていくことになる。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失したことで経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった。全国の大名家の42%以上、110藩の大名家の墓所があり、大名の石墓だけでも約2000基程度作られている。高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている。 奥之院は、様々な人々を供養する霊場であり、戦国時代の大名が建立した五輪塔も多くあるが敵・味方関係なく建立され、また宗派も関係なく、法然や親鸞のような墓碑もある。また佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、初代 市川團十郎などがある。奥之院は江戸時代までは身分のあるものにしか五輪塔の墓碑の建立が許されておらず、庶民は20cm程度の長方形の石を五輪塔の形状に彫った一石五輪塔とよばれる墓石を建てた。明治以降は自由となり、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の慰霊碑・供養碑や、様々な企業による慰霊碑・供養碑もある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。 佐竹家霊屋(重要文化財) 越前松平家(結城秀康、同母)石廟(重要文化財) 上杉謙信・景勝霊屋(重要文化財) 織田信長供養塔 浅野内匠頭墓所 法然(円光大師)供養塔 武田信玄・勝頼墓所 密厳堂(新義真言宗開祖覚鑁墓所) 一番石塔、徳川秀忠の二男忠長が母(淀君妹)のために建立 ヤクルト慰霊碑 日産慰霊碑
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