校名変更と国分寺移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 01:58 UTC 版)
「大倉高等商業学校」の記事における「校名変更と国分寺移転」の解説
太平洋戦争の戦局が日に日に悪化する中で、1944年4月、大倉高等商業学校は大倉経済専門学校と改称した。この時期には東京商科大学が東京産業大学、神戸商業大学が神戸経済大学と改称したように、「商科」「商業」の名を関する学校の多くが校名変更を強いられた。商業は戦時下では許されぬ私利私欲を追求するものとして軍部の怒りに触れたからであった。 1945年5月25日の空襲で赤坂葵町の校舎の大半を焼失。教職員と学生は8月15日の終戦を動員先の工場で迎えた。翌年1月、赤坂葵町の校地と引き換えに、大倉系の銃器製造会社であった中央工業所有の土地・建物の取得を決定し、北多摩郡国分寺町に移転した。
※この「校名変更と国分寺移転」の解説は、「大倉高等商業学校」の解説の一部です。
「校名変更と国分寺移転」を含む「大倉高等商業学校」の記事については、「大倉高等商業学校」の概要を参照ください。
- 校名変更と国分寺移転のページへのリンク