校地の変遷
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1883年(明治16年)に開校した際に仮校舎とした参謀本部構内の旧本部跡から、1884年(明治17年)に和田倉門内に新築した校舎に移転した。明治17年に陸大が移転したのは、和田倉門の近くの「旧大名屋敷」であったとする文献があり、それを踏襲した記載が千代田区観光協会のサイトにある。しかし、明治17年3月1日付の陸軍省達には「陸軍大学校今般和田倉門内へ新築落成候に付去月廿八日同所へ移転候条為御心得段及御通牒候也」と明記されている。 1890年(明治23年)に青山(現在の北青山1丁目、港区立青山中学校が所在)に恒久的な校舎を新築、移転した。陸大は「青山」と通称された。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月には山梨県甲府市に疎開した。ただし、青山の陸大校舎は戦災で失われずに港区立青山中学校の校舎に転用され、1985年(昭和60年)に同中学校の新校舎が建設されるまで使用された。
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校地の変遷
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1873年3月の開校に際して校地は神田雉子橋近くに置かれたが、同年12月の東京女学校への改称と同時期に竹橋近くの竹平町(現在の千代田区一ツ橋1丁目)に移転した。本校の通称である「竹橋女学校」はこの校地の所在地に由来する。
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校地の変遷
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「新潟県立長岡商業高等学校」の記事における「校地の変遷」の解説
開校当初は坂之上町にあったが、水道町への移転を経て1979年に現在地に移転した。 水道町の校舎は長岡西高校(長岡明徳高校)の校舎に転用されている。 2008年以降は長岡市内の県立3校(長岡農業・長岡工業)と提携して、模擬株式会社長岡CATプロジェクトを運営している。
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校地の変遷
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開設時の講習所は現在の大阪市西区立売堀3丁目17番地にあった旧町会所の建物を校舎とし、大阪府移管(1881年8月)にともない同じく西区江戸堀南通3丁目18番地の旧府会議事堂2Fに移転された。江戸堀の校舎は府立大阪商業学校に継承され、同校の後身である市立大阪商業学校が1892年(明治25年)10月、現在の北区堂島浜通2丁目12番地の新校舎に移転するまで使用された。 立売堀の旧校舎は移転後も使用・保存されていたが第二次世界大戦中の戦災で焼失し、現在は「阿波座南公園」の一部となっている。なお同地には市制施行70周年を記念し1961年(昭和36年)3月に「大阪商業講習所跡」の記念碑(石碑)が建立されている。
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校地の変遷
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東京府庁講内(1873年(明治6年)4月 - 1889年(明治22年)8月まで の16年間) 小学校教員講習所・東京府小学師範学校・東京府尋常師範学校 竹早校地(1889年(明治22年)8月 - 1900年(明治33年)8月までの11年間)- 跡地は東京府女子師範学校・東京第一師範学校女子部が使用。現在は東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎・同竹早小学校・同竹早中学校が使用している。 東京府尋常師範学校・東京府師範学校 青山校地(1900年(明治33年)8月 - 1936年(昭和11年)4月までの36年間)- 跡地等に関しては青山北町アパート#東京府青山師範学校を参照。 東京府師範学校・東京府青山師範学校 世田谷校地(1936年(昭和11年)4月 - 1951年(昭和26年)3月までの15年間)- 建物を含めた跡地は1960年より東京学芸大学附属高等学校が使用している。また、東京学芸大学も世田谷分校が1964年(昭和39年)3月に廃止されるまで使用していた。 東京府青山師範学校・東京第一師範学校男子部
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校地の変遷
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「大阪商科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷」の解説
源流諸校 立売堀校舎 (1880年11月 - 1881年8月) 立売堀北通三丁目の旧町会所跡。建物は第二次世界大戦中に空襲で焼失。現・阿波座南公園(大阪市西区立売堀2-2)で、記念碑あり。 江戸堀校舎 (1881年8月 - 1892年10月) 江戸堀南通三丁目十八 府会議事堂二階。 堂島校舎 (1892年10月 - 1909年7月) 堂島浜通二丁目。校地の北側は曽根崎川、東側は梅田入堀川(堂島堀割川)に接していた。現・NTTテレパーク堂島(大阪市北区堂島3)の付近。 旧制大阪高等商業学校 堂島校舎 (1892年10月 - 1909年7月) 大阪商業学校から継承。「北の大火」 で焼失。 江戸堀仮校舎 (1909年7月 - 1911年5月) 江戸堀南通三丁目の元 西区第二高等小学校校舎。 烏ヶ辻校舎 (1911年5月 - 1934年) 煉瓦造の豪華な校舎。跡地は現・NTT西日本大阪病院(大阪市天王寺区烏ヶ辻2-6-40)で、記念碑あり。 逍遙歌などに歌われた 「烏丘 (うきゅう)」・「桃渓 (とうけい)」 とは烏ヶ辻校舎のこと。 旧制大阪商科大学 烏ヶ辻校舎 (1911年5月 - 1934年) 大阪高等商業学校から継承。わずか 20年ほどで相当老朽化していたと伝えられる。(予科) 茶臼山仮校舎(1930年4月 - 1933年3月) 杉本町新校舎の建設が遅れたため、建設中の大阪市立美術館の一部を予科校舎として転用。 杉本町校舎 (1933年3月 - 1945年10月) 1933年に予科・高等商業部が先に移転、学部は 1934年7月に移転。 現在の大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区杉本3-3-138)。学部本館(現 1号館)、予科校舎(現 2号館)などが現存。学部本館は文化庁の登録有形文化財として登録された(第27-0165号)。 1935年11月の新校舎竣工式典で同窓会長 村本福松教授(1910年卒、1973年没)が以下のように評したほど簡潔なデザインの校舎。「元ヨリ、新学舎ハ、輪奐ノ美ノ誇ルベキモノヲ持ツテ居リマセン。然シナガラ、華ヲ去リ実ニ就ク、商人道ノ都、大阪ノ持ツ商科大学ノ学舎トシテハ真ニ相応シキモノデアリ、(以下略)」 敗戦後、アメリカ軍に全面接収される。 (学部・予科) 道仁校舎 (1945年10月 - 1949年3月) 南区の元道仁小学校校舎。 (大阪工業経営専門学校→高等商業部) 桜川校舎 (1945年10月 - 1949年3月) 西区の元桜川小学校校舎。 (図書館・研究室) 大宝校舎 (1945年10月 - 1949年3月) 南区の元大宝小学校校舎。 明治校舎 (1949年4月 - 1950年3月) 西区阿波座中通二丁目十六 元明治小学校校舎。予科終焉の地。 靱校舎 (1950年4月 - 1953年3月) 西区靱中通二丁目二七 元靱商業学校校舎。高等商業部・学部終焉の地。 大阪商科大学の閉学式のみは、返還された杉本町校舎の講堂で開催された。
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校地の変遷
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「大阪工業大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷」の解説
大阪工業学校は大阪市北区玉江町(現北区中之島5丁目)で発足し、後身の大阪高等工業学校も同地を使用した。玉江町校地が狭隘となったため、1921年から1923年にかけて大阪市都島区網島(東野田町)に移転完了した。網島校地(東野田校地)は後身の大阪工業大学・大阪帝国大学工学部に引き継がれた(網島駅も参照のこと)。 東野田校地の跡地は、現在は大阪市立東高等学校やNTTの研修施設となっている。
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校地の変遷
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「金沢医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷」の解説
金沢大医学部・金沢医科大の淵源となる種痘所は金沢彦三8番丁に設立され、さらにその後身である養生所は卯辰山、ついで医学館として大手町の加賀藩家老津田玄蕃邸に移転され、この校地は金沢医学所・医学校まで継承された。 四高医学部の校地は、教育については大手町の金沢医学校、臨床は殿町の石川県金沢病院をもって出発したが、1892年4月には仙石町(広坂通り)に新校舎が建設された。 金沢医専設立後、1905年に現小立野校地に病院が新築、ついで1912年3月に病院に隣接して医専校舎が新築され移転した(附属薬専は1929年に移転)。
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校地の変遷
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石川県石川郡崎浦村において開校されたが、1936年4月同地は合併により金沢市に編入された。
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校地の変遷
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「旅順高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷」の解説
中華人民共和国成立後、旧旅順高校校舎は旅順軍港などを管理する中国人民解放軍海軍副司令部になっている。
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