大学について
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1991年著書(1998年改訂)では、「オレは8校受けたが、全部文学部だった」として、1993年著書では「オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」と書いている。しかし、2006年以降の著書では3校に合格したことになり、2009年に出版された1993年著書の改訂版では、上記の記述が「オレは結局、ほとんどの大学に受かっていたのだ」という記述に変わっているまた、2008年著書では、専修大学の受験に失敗した記述もある。 國學院大学に関して、上記の通り8校全部文学部を受験した記述と、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。(中略)まだ早稲田の入試が残っている」との記述があるところ、吉野が受験した年の入試日は國學院(文・一部)、早稲田(一文)、早稲田(二文)、國學院(文・二部)の順序であるため、國學院(文・一部)が前提とされている。ほか、「各大学の入試がすべて終わった2月、とうとう第一志望の国学院大学の合格発表の日がやってきた。(中略)俺の受験番号がある」とその年の2月26日に合格発表がある國學院(文・一部)に合格したことが前提となっている。しかし、吉野が卒業したのは二部であり、吉野が受験した年は出願締切が2月28日、入試が3月9日、合格発表が3月14日である。ほか、「うちから大学まで1時間以上(中略)9時から朝1限始まるんで7時半には出ないと苦しい(中略)7時に目覚ましかけとく」と発言し、また、緊張して学校を早退したという話では「今日の夜の10時、俺の一生が決まるんだと思うと、学校にいられなくなっちゃう。そわそわしちゃって。で、かーえろとか思って。速攻で家に帰るんだ。と、昼間の2時くらいに家に着いちゃうんだよ」 と発言していたが、彼が卒業したのは二部であり、授業は夕方開始である。また、彼の著作をVシネマ化した作品は「ノンフィクションドラマ」と銘打たれているところ、その中で合格発表の際に映る受験票には一部にマルがついているが、彼が卒業したのは二部である。 また、著書で、「国学院や明治の場合、合格最低ラインは190点から高くても200点くらいだと思うが(中略)日本史で90点以上は取れると思っていたし、国語では絶対に95点以上いくと思っていた。そうすると、2科目で190点くらいにはなるので、英語でほんの少し加えれば大丈夫という計算ができた」と書かれているが、吉野が受験した年の国学院(文・二部・文学科)の合格最低点は125点であり、そこまでの得点は必要ではない。 國學院以外の合格大学名について、「立教・明治・法政ババババーっと合格の嵐だ」「立教の文B(小論文の試験)を受かった」「実際、学習院、明治、法政(すべて文学部の日文や国文)など、国学院よりも偏差値が高く、有名な大学にも受かった」との記述があり、ほか具体的な大学名として、中央大学と日本大学にも合格した旨を公言している。しかし、上記の通り2006年以降の著書では合格した大学数は3校となっている。そして、仮に合格が真実ならば証拠となるはずの合格通知については、2009年3月著書で、受験のきっかけとなった元交際相手を呼んで「『これ明治大学の合格通知なんだよね』と俺は言って、びりっと破った。立教の合格通知も同じように破ってやった」と述べている。 早稲田大学について、1993年の著書では、「国学院の試験を受け終わった直後、オレは血を吐いて倒れた。そのまま病院に運ばれ、即入院した。(中略)まだ早稲田の入試が残っているが、もうこの状態じゃちょっとムリかもしれない。(中略)オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」と、早稲田の受験を断念したか又は合格したかのような記述があるが、2006年以降の著書では「早稲田の一文には落ちた」「おれは受験のときに早稲田に落ちた」「俺だって受験時代、早稲田に落ちた」「英語がまったくできなかったオレは、むかし早稲田を受験して落ちた」と書かれ、1993年著書の改訂版でも「心にいつまでも残っているのは早稲田に落ちたことのほうが大きかったりする」との記述を追加している。 学習院大学に関して、上記の通り国学院(文・一部)と学習院(文)の両方に合格したことになっているが、そもそも1987年の国学院(文・一部)と学習院(文)(二部は存在せず)の入試日はともに2月17日であるため両方を受験することは不可能である。さらに、吉野が大学に入学した1987年の逗子開成高校も、学習院大学の合格者が0人であると発表している。 第一志望に関して、90年代の著書では「第一志望だった、この国学院大学」「オレは、何がなんでも国学院と思っていたから、もし国学院がダメだったら、絶対に来年も受験しようと考えていた」「早稲田や東大には行けなかったけど、行けなくてよかった」など、國學院に対して強いこだわりを見せる記述が随所にあったが、最近の著書では、「オレは大学生活が終わったとき、なんか悔しかったね。それはやはり、国学院よりもいい大学に行きたかったからだ」「本当は早稲田に行きたかった。でも行けなかったから國學院に行った」「本命である早稲田の一文」と書かれている。 大学時代、成績が1番で特待生だったと述べており、授業料を免除されているにもかかわらず親から授業料として70万円預かってそれで豪遊した旨を述べているが、國學院大學学報に記載されている昭和62年度から平成2年度の各年度における特待生の欄に吉野敬介の名前は存在しない。また、父兄会が表彰する成績優秀者の欄にも名前が存在しない。 大学時代に古文を特に勉強したことに関して「大学に入っても、テニスだスキーだコンパだと、青春を謳歌するといえば聞こえがいいが、いまさらそんなバカをやる気はなかった」と述べていたが、別の機会では、4人のグループ交際でテニスに行ったという話や、クラスで仲の良い男女5人ずつ計10人で毎週のように飲んだり長期休暇には毎回のように軽井沢やスキーに行ったりした話をしている。
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「イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校」の記事における「大学について」の解説
アメリカ東部の名門私立大学群をアイビーリーグと称することから派生した、公立の名門校群であるパブリック・アイビーの1つ。2016年のUSニュースの大学ランキングでは第11位。世界大学ランキングでは、2010年に世界第25位を獲得した。特に工学系の専攻は世界第4位にランクされた。LED(発光ダイオード)やモサイックは、イリノイ大学における著名な発明の例である。コンピューターサイエンスの強みは特筆に価し、ビル・ゲイツ氏は2004年2月のスピーチで、マイクロソフト社は同大学のコンピュータ・サイエンス学科の卒業生を最も多く採用したことに触れた。ユーチューブの設立者であるスティーブ・チェンも同校工学部コンピューター・サイエンス専攻の出身である。これまで21人の卒業生や教授がノーベル賞を、20人がピューリッツァー賞を受賞している。
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