政界の麒麟児とは? わかりやすく解説

政界の麒麟児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:48 UTC 版)

尾崎行雄」の記事における「政界の麒麟児」の解説

父が神風連の乱九死に一生得て伊勢余生楽しんでいた縁故をたどり、明治23年1890年)の第1回衆議院議員総選挙三重県選挙区より出馬して当選以後63年間に及ぶ連続25当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人2代3代わたって少なくない。この時代選挙はまさに戦争同然であり、尾崎何度も刺客襲われそうになっているが、地元猪狩鉄砲隊組織してこれを追い返すなどしている。 第1次松方内閣第3議会における軍艦製造費削除問題など活躍し、『朝野新聞』などから絶賛される。 第2次伊藤内閣では第6議会で、民党六派は内閣弾劾上奏文を提出し尾崎がその説明当たった第一に政府不当解散第二政府軟弱外交第三政府議会軽視第四伊藤博文の事ごとに袞竜の袖に隠れる行為批判し伊藤博文顔色変えたといわれる。この採決149144というわずか5票の差で否決された。 日清戦争が始まると、東亜大計立てるべきとの論文次々執筆し世論指導努めた日清戦争後第4回総選挙後各派とも従来恩怨忘れ挙国一致して外敵抗する議決広島大本営可決した伊藤博文が後に幾多障害排して自ら政党組織乗り出し立憲政友会を創ったのは、日清戦争における各派協力ぶりを見て政党敵視観念放棄したからだといわれている。三国干渉伊藤屈する対外強硬派先頭に立ち、政友有志会を組織して演説したこの間尾崎進歩党属した時局便乗派の徳富蘇峰の『国民新聞』などが松方正義大隈重信近接最上の時局救治策であるとの主張盛んに唱導したこともあってか、第2次松方内閣成立すると、その外務大臣に就任した大隈推挙外務参事官就任するが、「二十世紀事件」や樺山資紀食言などで、尾崎自身倒閣動いた。しかし、勅任官ありながら進歩党会議出席し内閣攻撃したことで懲戒免職処分となった大隈その後10月31日辞表提出し進歩党系の官僚政府から去った

※この「政界の麒麟児」の解説は、「尾崎行雄」の解説の一部です。
「政界の麒麟児」を含む「尾崎行雄」の記事については、「尾崎行雄」の概要を参照ください。

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