政界の立身出世と最初の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 04:38 UTC 版)
「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「政界の立身出世と最初の失脚」の解説
生活のためまずは法律家の道を歩み、1582年の法廷弁護士に始まり1586年にグレイ法曹院の幹部員に、1587年または1588年に講師に選出された。1589年に星室庁の書記継承権も与えられたが、収入は1608年まで無かった。コモン・ローの勉強や生計に追われる中で執筆活動を始め、1585年頃に最初のエッセイ『時代の最大の誕生』を書いた。またバーリー男爵ら有力者に猟官運動を行ったが、バーリー男爵がベーコンの引き立てに熱心で無かったためか、政敵のレスター伯ロバート・ダドリーの派閥に接近、1581年にレスター派のベッドフォード伯爵フランシス・ラッセル(英語版)が影響を持つコーンウォールのボッシニー選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員となる。1584年にやはりベッドフォード伯の影響があるウェイマス=メルクーム・レジス選挙区(英語版)から選出された。 議会活動は1584年の議会でまだ断片的な発言しか残っていないが、議会とは別に国王秘書長官(英語版)フランシス・ウォルシンガムの諜報活動に参加した。これが認められてウォルシンガムの後援で選出された1586年の議会で冒頭演説の栄誉を与えられ、翌1587年には特別税に関する委員会、1588年に法案審議の準備委員会の委員に任命され、徐々に政府に重用されるようになった。1589年の議会でもウォルシンガムの後援で引き続き選出、多くの委員会出席や発言の増加が見られ、議会でも重要な役割を担いつつあった。また1589年と1592年にそれぞれピューリタンとイングランド国教会の過激な論争を非難する『イングランドの教会の論争についての勧告』と、バーリー男爵の中庸な宗教政策に反対するカトリック(イエズス会)のパンフレットに反論する『この1592年に出版された中傷文に対する考察』を執筆、著作活動も続けていた。 ベーコンは兄と共に法学を学び優秀であったが、後ろ盾となるはずのバーリー男爵は優秀なベーコン兄弟が息子ロバート・セシルの競争相手になることを恐れて兄弟を支えようとしなかった。そのためベーコン兄弟はセシル父子を恨むようになり、1591年以来エリザベス1世の寵臣エセックス伯ロバート・デヴァルーの顧問となる。それまでベーコンの後援者だったレスター伯は1588年に、ウォルシンガムは1590年に亡くなり、レスター伯とウォルシンガムを義父にしているエセックス伯は彼等の派閥を受け継ぎ、バーリー男爵父子に対抗する有力者に台頭していた。ベーコンはウォルシンガムに仕えた経験を活かし、彼が残した諜報ネットワークを再建してエセックス伯に取り入った。 ところが、1593年の議会でベーコンは失態を演じてしまう。女王の意向を無視した発言を繰り返して政府と対立、議会を紛糾させたのである。スペインの侵攻に備えて軍事費を賄うため、3つの特別税承認を求めた女王は議会を召集したが、ベーコンは女王の目的とは違う法律の再編纂について演説したり、特別税について貴族院で先に協議されたことを咎め庶民院が先に特別税を承認する特権を強調して審議を伸ばしたり、議会の混乱を生んだ。さらに特別税には賛成するものの、その支払い期間を6年にすることを提案、国民に重い負担をかけることを憂い、特別税承認を先例にしないことを主張した。ベーコンの提案はすぐさま政府側の人間に反論され、ロバート・セシルは「2つの大きな災いが迫っているとしたら、より小さな災いを選ぶべきである」「今回の特別税は決して永続する物ではなく、原因があって生まれた物は、原因の消滅と共に終わる物である」と発言、セシルは議会の流れを変えて特別税承認にこぎつけたが、ベーコンは議会から孤立した上女王の怒りを買い、宮廷から遠ざけられ猟官にも失敗、失脚して不遇をかこつことになった。
※この「政界の立身出世と最初の失脚」の解説は、「フランシス・ベーコン (哲学者)」の解説の一部です。
「政界の立身出世と最初の失脚」を含む「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事については、「フランシス・ベーコン (哲学者)」の概要を参照ください。
- 政界の立身出世と最初の失脚のページへのリンク