政界の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
12月、第2回帝国議会衆議院において、断行派の法治協会会員渡辺又三郎は商法一部施行法案を提出。 田中法相は一部でなく全部を期日通り施行すべきと反論、審議継続につき64対64の同数となり、議長代行の津田真道(衆議院副議長)の議長決裁(明治憲法47条)により否決された。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙において、品川弥二郎内相(長州閥)らによる暴力的選挙干渉が行われ、強硬派の薩摩閥および長州閥山縣系と、柔軟路線の長州閥伊藤系の対立が鮮明になる。伊藤は選挙干渉に関与した全官吏の厳罰を主張、品川は辞職に追い込まれた。政権の脆弱、元老の対立を背景に、天皇の直接政治関与が期待されたのはこの時期の政界の特徴である。 4月、延期論の盛り上がりに動揺した松方首相は議会前に民商法の修正委員会を設けるべきと主張、閣内に一、二の賛同者を得たが、法典断行の確約を得て入閣していた田中法相の強い反対に遭って撤回。 この頃、政府の財政基盤も脆弱であり、地租改正によって農村は疲弊していた。明治政府が農民の重い負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、アメリカ公使ジョン・アーマー・ビンガムやカナダ外交官ノーマンらの主張によれば、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかったために農民に転嫁せざるをえなかったことが主因である。 これに対比して、イギリスやフランスのような国々では外国貿易と初期の植民地利潤を通じて資本の蓄積が実現された。この理由から、先進国の農民階級は日本の農民が背負わなければならなかった負担をある程度免れたのである。 — E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』 例として、1890年(明治23年)における日本の内国税収入と海関税の比率100:6.43に対し、アメリカは100:169.03。歳入に地租の占める割合は、イギリスの1.27%に対し、日本は58.07%に及んでいた。 政府も民党もこの問題は認識しており、積極財政政策による救済か、緊縮財政による民力休養・政費節減かで激しく対立していた。政府側の井上毅は、地租維持はやむをえないまでも、市場経済に対応させるため戸主権を強化して農村の解体を防ぐべきとの構想により、内閣の方針に反して民法延期論にまわった。 民党も農村保護・家族経営の安定化の観点は一致していたから、旧民法(特に財産法)は弱者保護が不十分とする延期派勢力が出現。『国民新聞』は単純な党派問題ではないと指摘(28日)、『読売新聞』も「法典論は党派問題にあらず、条理の勝敗なり」と報じている(30日)。 自由党は委員を設け法典延期の利害得失を研究したが党論統一に至らず、代議士の自由運動に任せることに決定。党首板垣退助は断行派だったが、党内にも延期論者が少なくないことから、梅ら断行派による多数派工作に応じなかった。後世の富井証言によると、「明治25年」の梅謙次郎は「断行派の参謀長とでも云ふべき一人」になっており、議会演説でも、大臣が梅の書いた原稿を読むことがあったという。 また「政府党」の「国民協会(ママ)」も、江木証言によると学理尊重を説く延期派の元田肇の活動により党議拘束を外すことを決断したとされる。 一方、改進党党首大隈重信は法典の不完全を承知しつつも、条約改正優位論の見地から党員に断行支持を呼び掛けている。 5月20日、田中法相は優柔不断の松方首相に態度の確定を迫り、閣議で討論を尽くし、政府はたとえ延期法案が可決されても、断固法典を施行すると決議した。 江木証言では、中立派の副島内相(品川の後任)を除き政府は皆断行派。延期論にも一定の理解を示した閣外有力者としては、大隈・品川・井上馨の名が挙がる。
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