政界の重鎮とは? わかりやすく解説

政界の重鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:35 UTC 版)

大野伴睦」の記事における「政界の重鎮」の解説

保守合同の話は進んだが、誰を総裁とするかで合意がまとまらなかったが、結党後公選によって総裁選出することとし、二党の総裁総務会長であった鳩山緒方竹虎三木大野の4人による総裁代行委員設置されることとなった。こうして1955年12月自由民主党結成された。なお、後の1956年4月には緒方死去などもあり、鳩山自由民主党総裁選挙により総裁就任した自民党内では自身派閥となる白政会(のちに睦政会となる)を旗揚げし、大野派として約40名を擁する派閥領袖となった。なお、大野死後大野派一新会船田派)と一陽会村上派)に分裂した1957年初代自民党副総裁就任したまた、日本遺族会顧問務め1958年1月には遺族からなる陳情団を組織し政府および自民党に対して靖国神社への公式参拝要求した岸内閣時代岸信介首相から大野派白政会)を主流派として内閣協力させることの見返り後継総裁念書手に入れるが、これを反古にされる。一説にはこの事について岸は「床の間肥溜めをおけるわけがないと言い放ったという。また渡邉恒雄によるとこの一件昭和31年1956年)の総裁選における意趣返しであるという。この出来事きっかけとして、大野終生岸を憎むこととなる。岸が首相式辞直前右翼大野支持する院外団にいた男)に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。 大野首相就任に強い意欲燃やしており、1960年7月行なわれた岸辞任後自民党総裁選では、池田勇人対抗し石井光次郎とともに党人派から出馬名乗りを上げた。しかし、大野支持岸派一部十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派分裂する池田勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野泣く泣く出馬辞退する。ところが川島は「大野支援しよう思ったが、辞退したのでわが派は池田支持する」と表明し池田当選一役買うこととなる。この時大野は「川島だまされたんだ」と再度号泣したといわれる1961年池田接近し再び自民党副総裁就任脳血栓慶應義塾大学病院入院中だった1964年5月29日心筋梗塞おこして死去(享年73)。墓所池上本門寺死後6月14日大野地元である岐阜県盛大な県民葬が開催された。岐阜市民センター執り行われたこの県民葬は岐阜県知事執行委員長として中央官僚地元選出議員県議員、岐阜県主な企業経営者後援会など総勢3千人集まった

※この「政界の重鎮」の解説は、「大野伴睦」の解説の一部です。
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